自転車販売店

 地下鉄──正確には、乗り入れ先の北大阪急行電鉄──桃山台駅で降りると、自転車店のリストと地図を交互に睨めっこした。

「まずは……旧中環きゅうちゅうかん沿い行くわよ」

 旧中環、つまり大阪中央環状線の旧線沿いには、個人商店が並んでいた。朝倉はそこに目をつけたわけである。炎天下、桃山台駅からそこまで十分ほど歩くのはそれなりにこたえた。

 やがて「サイクルショップカワムラ」と言う小さな自転車店の前にたどり着いた。店の奥では人の良さそうな好々爺が自転車の整備をしている。朝倉は〝戦争〟と言っていたが、この平和の象徴のような個人商店で彼女はいったい何をやらかすつもりなのだろうと、草野は固唾を飲んで見守った。

 

「こんにちはー」

 朝倉はこれまで見せたことのないスマイルで店に入ったが、店主の川村かわむらはあからさまに嫌な顔をした。

「どちらさんでっか。セールスならお断りでっせ」

「セールスではありません。私はミヤケモータースの者ですが、今日は大変お得なお話を持って参りました」

「どうせお宅のバイクをウチで売れとかそんな話でっしゃろ。モチダはんもそんなこと言ってきよりましたが、ウチは自転車一筋でんねん。さあ、帰った帰った」

「……モチダさんはリベートいくらで提示してきましたか?」

「ああん?」

 川村が僅かに反応したのを、朝倉は見逃さない。

「もしかして……これくらいじゃないですか?」

 朝倉は指で数字を提示しながらトークをかける。「ウチなら……これくらい出しますけど」

 川村の表情が変わった。心の琴線が弾ける音が聞こえるようだった。しかし、川村はそれを振り払うように襟を正す。

「ええ話やっちゅうんはわかった。そやけど、自転車屋には自転車屋のプライドってもんがあるさかい、お断りします」

「失礼ですが……最近、いわゆる〝ママチャリ〟の売れ行きが芳しくないのではありませんか?」

「ん……それが何や?」

「理由は簡単です。その需要がミニバイクにシフトしているからですよ」

「んなアホな」

「たとえば……ここから桃山台駅まで行くには、キツい坂道を登らなければなりません。非力な女性が毎日自転車でこれを登るのは大変だと思いませんか?」

「まあ、そうかもしれんけど……」

「これがミニバイクなら、楽々登れます。だから主婦たちは自転車からミニバイクに乗り換えているのですよ。自転車屋さんとしてはもちろん痛手ですが、川村さん自身がミニバイクを売れば、むしろいい儲けになりますよ」

「いやいや、朝倉はん、自転車もバイクも売りっぱなしではあきまへんのやで。モノを売って、後々そのメンテナンスもしっかり出来て初めて商売になるんや。そやけど、自転車とバイクではノウハウがまるでちゃいますわ」

「ご心配には及びません。ミニバイクの主な修理はタイヤのパンクとブレーキパッドの交換ですが、自転車の技術をほぼそのまま応用出来ます。その他は大体が部品交換ですが、サービスマニュアルを見れば私でも出来るくらいです。また要望があればカスタマーセンターからいつでもサービスマンを派遣いたしますので、メンテナンス面のことはご心配いただかなくても大丈夫です」

 そうして朝倉はあの手この手で説得して、ついにサイクルショップカワムラでミヤケのミニバイク・ステップを置いてもらうことを承諾させた。


 サイクルショップカワムラを出てしばらく歩いたところで、草野は尋ねた。

「朝倉さん、カスタマーセンターのサービスマンて田辺さんたちですよね。あそこにはそれほど人員が備わっているように見えないんですけど、川村さんみたいな素人販売店が増えていけば、呼び出される機会が爆発的に増えると思うんです。その時対応出来るんですか?」

「しなければいけないのよ、出来るかどうかじゃなくて。それにそれを考えるのはカスタマーセンターよ。私たちは売ることを考えるだけ」

 草野は技術者の端くれとして、物売り視点の無責任発言に憤りを感じる。朝倉は仕事は出来るかもしれないが、モノが壊れても、手や服が汚れるのを嫌って自分で直そうとしないタイプの人間だ。そんな人間が自転車とバイクのメンテナンスは同じようなものだ、などと言っても信用できない筈である。しかし川村にそれが見抜けないのは、カネに目が眩んでいるせいだろかと草野は思った。


 それから二人は千里中央方面に歩き進みながらしらみつぶしに営業していったが、サイクルショップカワムラのように手ごたえのある店には出会えなかった。千里中央駅付近にたどり着いた時、朝倉は時計を眺めながら言った。

「私、ちょっと会社に戻らないといけないから、あとは一人でやってみなさい。じゃあ、また後ほど」

 朝倉は草野を残して行ってしまった。草野はそれから数軒回ったが疲労がピークに達したので、そこで止めることにした。ただ、定時までは時間が相当あるので、千里中央にある図書館で時間を潰すことにした。朝倉が言ったMM戦争という言葉が気になったので、それについて調べようと思った。雑誌のバックナンバーを漁っていると、幾つかMM戦争についての記事が見つかったので、それらを集めて目を通してみた。読みながら、草野はそれまで知らなかった会社の暗部に愕然としていった。そして、ある記事の小見出しにあった「経済史上最低最悪の販売合戦」の一文を見て、自分がどんな世界に巻き込まれたのかを実感した。

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