第二営業課

 ミヤケモータース大阪営業所は、大阪府吹田市の東端にあり、国鉄千里丘駅から歩いて10分ほどの場所にあった。建物の上部には赤い文字で「MIYAKE」と書かれたロゴマークがあり、遠くからでも分かる。上から見ると建物はL字型に配置されており、正面玄関から手前側が事務棟、奥側が倉庫とカスタマーセンターとなっていた。

 敷地が広いわりには建物の入口は小さく、また受付と思しき場所もない。草野はたどり着いたのはいいが、ここからどこへ進めば良いかわからない。迷っていると、背後から誰かがやって来てタイムカードを打った。どこか寺尾聡に似た男で、話しにくい雰囲気を漂わせている。だが、他に聞ける人はいない。

「すみません、今日からこちらに配属になったんですけど、第二営業課はどこですか?」

 すると、男は草野の頭から爪先まで一通り見渡してから、低いダミ声で答えた。

「第二営業課? なんや、〝赤紙〟でももろたんか?」

「赤紙……?」

 草野が聞き返すと、男は気まずい顔で口を押さえた。

「ちょっと口が滑ってもうたがな。気にせんとってや。ああ、第二営業課は、そこの階段上がって、二階の右側や」

「ありがとうございます」

 草野は一礼して階段を上がろうとしたが、その背中に男はまた声をかけた。

「おおい、少年!」

「……何でしょうか」

「その……結構エグいことやらされるかもしれんけど……あんまこん詰めんなや。身ィ持てへんで」

「はあ……」

 草野は成人した自分への〝少年〟という呼ばれ方に違和感を持ちつつ、男の言った〝赤紙〟という言葉が気になった。言うまでもなく、それは戦時中の召集令状の俗称である。無論、文字通りの意味でないことは確かだ。当時は「もはや戦後ではない」という言葉が流行してから既に二十年以上が経過していたのである。

 二階に上がると、フロアの真ん中に仕切りがあり、左右に事務所が分かれていた。入口にドアはなく、階段からすぐに入れる。教わった通り、右側が第二営業課の事務所となっていた。朝早いせいか、着席している人はまばらだ。

「あのう、ごめんください。今日からこちらでお世話になる草野ですけど……」

 事務所中の視線が集まる。しかし歓迎の趣きはなく、どこか冷ややかだ。そして一人の若い女性が立ち上がり、ツカツカと近づいてきた。

「草野君ね、初めまして。はまず上の第一会議室に行って。そこで蟹沢課長が待ってるから」

 黒縁メガネをかけた瓜実顔うりざねがおに、当時まだ珍しかったショートのワンレングスというヘアスタイル。身だしなみに気を使っているようだが、オシャレよりもエチケット順守をアピールしたような、あくまでクールな印象だった。

「ありがとうございます」

 草野は頭を下げて、もう1階分階段を上る。三階は二階とは異なり、各部屋の入口には扉がついていた。

「おはようございま……」

 第一会議室の扉を開けた草野は、その中の異様な光景に口をつぐんだ。七人の若者が〝気をつけ〟の姿勢で横一列に並んでいたのだった。


 ビシッと整列した彼らを一人の中年男が苛立たしそうに睨みながらウロウロしていた。状況から考えて、彼が課長の蟹沢蛤次かにさわこうじで間違いない。蟹沢は草野を見つけるといきなり怒鳴りつけた。

「名前!」

 草野は萎縮して声が出なかった。

「……草野です……」

「聞こえない、大声出せ!」

「く、草野です!」

「よし、入れ!」

 草野は恐る恐る中へ入った。一人、太った女性がいたが、彼女は涙を流していた。何故かと思っていると、蟹沢課長が彼女を指差した。

「もう一度言うぞ、おまえはこれまでろくに働きもせずに食べたいだけ食べて、ブクブク太ったメス豚だっ!」

「……はい、蟹沢課長。私はメス豚であります……」

「ふざけるな、声が小さいっ! もう一度!」

「私は、メス豚でありますっ!」

 彼女は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、大粒の涙をこぼしていた。その顔を蟹沢は意地の悪い目つきで覗きこんだ。退化が進んで広くなった額、その上に電話の受話器のような頭髪がヒョッコリ載っている。カニと言うよりはカマキリに近い。その顔には人を見下す傲慢さと、常に自己保身を優先させる狭量の狭さが現れていた。

「草野っ!」

「はいっ!」

「おまえはここに来るまで何をやっていた!?」

「ピアノの調律です。……と言っても、売れなければピアノに触らせてもらえないので、まだ調律はしていませんが……」

「甘えるなっ! おまえが無能だから、おまえの調律など必要とされていないだけだっ! 違うか!?」

「いえ、技術センターでは上位の成績でしたので、技術的には問題ないと……」

 と言うが先か、蟹沢の平手が草野の左頬を打った。

「口答えするなっ! もう一度言うぞ、おまえは無能だっ!」

 草野は唇を噛み締めて叫んだ。

「はい、私は無能であります!」

 それから三人の若者が出社してきたが、みな同じように蟹沢の侮辱を受けた。

「これで10人全員揃ったな。おまえらは一つの班だ。だが、仲良しグループなどではない。互いの仕事を見張るのだ。自分だけがノルマを達成すればいいと言うわけではないぞ、一人でも達成出来ない者がいれば、班全体で責任を取ってもらう。いいな!」

 草野は頬の痛みが止まらなかった。そして先程、寺尾聡に似た男が〝赤紙〟と言った意味がようやくわかりかけた。しかし、これから草野たちを待っていたのは、予想を遥かに超えた厳しい試練だった。

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