異動
一九八一年 大阪
うだるような暑さの中、
恋人のいない男の
草野はこの春、浜松市にある宮家楽器技術センターを卒業し、一人前のピアノ調律師としてミヤケ月販大阪営業所に配属された。子供の頃から習っていたピアノに関する仕事につきたいと、調律師を志した。そうしていよいよプロの調律師として働ける……と思いきや、最初に命じられた仕事は〝月販〟の契約を取ってくることだった。
月販とは、将来のピアノ購入を見越しての積み立て預金である。銀行と比べて遥かに高金利である上に、ピアノ購入の際には様々な特典が付くというもの。
「始めから調律の仕事がもらえる
新人研修での上司である、
営業成績の悪い者はろくに休みももらえない。いや、休めないことはないのだが、契約がしっかり取れるまで休まないのが暗黙のルールとなっている。定時で帰るなどもってのほかだ。
草野は主に千里中央辺りを担当している。ショッピング街を出て、新千里東町の団地群をドサまわり。エレベーターのない五階建ての建物を上り下りして、一軒一軒訪問する。疲れないわけがない。草野は気晴らしに、高速道路の上に架かる橋から自動車の往来を眺める。ここは中国自動車道と中央環状線が並走していて、たくさんの車が通過して行く。たまにピーというサイレンが鳴って白バイが出動する。スピード違反の車両が捕まったのだ。大抵捕まるのは、ミニバイクとかファミリーバイクと呼ばれる、原動機付自転車だ。制限速度は三十キロだが、こうして周りが高速で走っている道路では知らずにスピードを出してしまう。
「最近、この手のバイクが増えたな……」
草野は呟いた。この頃、ミヤケとモチダのバイクが新製品ラッシュで、テレビコマーシャルでも、見るたびに新しい車種が紹介されている気がした。だが草野はあまりバイクには興味がない。高校時代はバイクに熱中するクラスメイトが少なからずいた。しかしそういうのは、どちらかと言えば不良やツッパリと呼ばれるタイプで、草野が友達になれるような人種ではなかった。
そうして自動車見物を終えた草野は再び団地回りをする。運良く、子供にピアノを習わせようかと思っている主婦に巡り合い、何とか契約が取れた。これで帰っても文句を言われることはなかろう、と思って草野は会社に戻った。
事務所の扉を開けると、途端に拍手喝采の音が聞こえてきた。何だろうと思っていると、同期の
「入社数カ月でグランドピアノを売るなんて立派や、おめでとう!」
また拍手。
太田がピアノを販売したのは入社してから3台目だ。これまではアップライトピアノだったが、初めてグランドピアノを販売したのだ。鼻高な太田を見て、草野は居心地悪かった。同期が成功すると、必ずその反動が草野に来る。
「おまえの同期、頑張ってるやないか。ちょっとは見習ったらどうや」
「あいつに出来るんやったら、おまえにも出来るやろ」等々。そう言われるのが鬱陶しくて、草野は出来るだけ天野の目に止まらないよう、コソコソと月販の事務手続きに勤しんだ。ところが、しばらくすると天野から別室に呼び出された。
「おい草野、ちょっと会議室に来い」
天野は立ち上がり、草野に手招きした。嫌な予感がしながら草野は後について行く。会議室に入り、席につくと天野はお気に入りの洋モクに火をつけた。何度も使い走りに行かされたので、草野もよく覚えている銘柄だ。
「……草野、急な話やけど、おまえに異動の話が出てんねん」
「はい!?」
草野は初めて大声を出した。「異動って、どこですか?」
「ミヤケモータース大阪営業所。来週からそっちに行ってもらうことになった」
「ミヤケモータースって、あのオートバイのですか? 楽器とは随分畑違いですけど……」
草野は我が耳を疑った。なぜそんなところに異動になるのか?
「そやな。まあでも、向こうでしっかり売りの勉強してこいや。ピアノの商売にも役立つやろ」
「僕、ピアノの業務に戻れるんですか?」
「……知らん。そら上の決めることや」
そして天野は洋モクの火を揉み消して出て行った。
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