乱売の戦禍
緋糸 椎
第一章
MM戦争(プロローグ)
第二次世界大戦が勃発し、日米開戦からしばらく経った頃、日本全国で製造業の軍需転化が押し進められていった。もちろん当局の〝お達し〟ということもあったが、戦時下で国民がギリギリの生活を強いられていた当時の状況では、民需がほとんど見込めなかった背景がある。それらの企業が生き残るためには、軍需以外に道はなかったのである。
大手ピアノメーカーである
ところが楽器と飛行機の部品では、あまりにも製造ノウハウが違い過ぎ、容易に鞍替えなど出来るものではなかった。そこで当時の社長であった
戦後、宮家楽器は本業である楽器製造を再開したが、軍需製造技術を平和利用しようと、オートバイの製造に着手した。その際、再び持田五郎の指導を仰いだ。持田は当時、持田重工業という新会社を設立していたが、宮家楽器の要望に惜しみなく応じ、その製造ラインの設営に大きく貢献した。
その後、宮家楽器のオートバイ製造部門はミヤケモータースとして独立、当時業界トップに躍り出ていた持田重工業とは競合関係にありながらも、良好な関係を結んでいた。
その二社の関係に亀裂が生じ始めたのは、七十年代の終わり頃であった。当時はオイルショックの煽りを受けて、日本でのオートバイの販売は頭打ち状態となっていた。そんな最中、モチダはこれまでオートバイ販売のターゲットとされて来なかった主婦層に目を止め、ミニバイク「ルッツ」を発売した。人気ハリウッド女優を起用したCMが功を奏し、「ルッツ」は爆発的に売れた。
モチダの成功に、当然ミヤケも目をつけた。ミヤケは「ルッツ」よりもさらに女性が乗りやすいように工夫を凝らした「ステップ」を開発。そしてCMには庶民派女優として人気のあった島崎美恵子を起用して、より身近さをアピールした。その結果、発売されるや否や「ステップ」の売り上げ台数は「ルッツ」を遥かに上回った。
そのようにミヤケとモチダのミニバイク競争はヒートアップして行ったが、それでもまだ最初の内は〝好敵手同士による健全な競争〟ぐらいに思われていた。ところが一九七九年(昭和五十四年)、ミヤケモータースの
「我が社はこれより、オートバイ業界盟主の座を取りに行く」
これは当時業界一位であったモチダへの事実上の宣戦布告であった。こうして史上最悪の乱売合戦として悪名高い〝M M戦争〟の火蓋が切られることになった。
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