多摩の杉

駄文職人

第1話

 バスを降りると、涼やかな風が頬を冷やした。都市は連日の雨と熱波で蒸し暑い日々が続くが、郊外にもなればずいぶん暑さが和らぐものだ。恭介はリュックを背負い直して深呼吸してみた。今年で大学生になったが、山と川の土臭いような匂いは幼い頃から少しも変わらない。

 バス停は山と山に囲まれるようにぽつんとあった。背伸びをすれば道路下をざあざあと多摩川が飛沫を立てているのが見える。遠くで釣竿がぽつぽつと刺さっている。橋の上を越えたらすぐにあるのが小さな集落だ。

 深呼吸したばかりの息を重く吐き出し、恭介は国道沿いに集落へと歩き出した。

 昔々に富豪が治めていた土地らしく、山裾を切り拓いてできたそこでは多摩川の恩恵を十分に受けて田畑が広がり実りが豊かであったという。だが今は人が流出してすっかり過疎化し、荒れ散らかした元田んぼや空き家がそこここに見受けられた。

 祖父の家はそんな集落の中にあった。

 一応インターホンを鳴らしてみたが返事はない。玄関のガラス戸を横にずらせば、鍵はかかっていなかった。

「じいちゃん。来たよ」

 声をかけると、奥から祖父が出てきた。去年より痩せたかも知れない。それでも背筋はしゃんと立っている祖父の姿に恭介は安堵した。

 しかし祖父の方は、恭介をじろりと見て「あがりなさい」とだけ言い放つとすぐに踵を返してしまった。慌てて恭介は靴を脱いで祖父の背中を追う。

 線香の香りの染みついた居間は、畳の上にこたつ机がどんと置かれているばかりで殺風景だった。部屋の隅に慎ましやかに据えられた仏壇では半ばまで燃えた蝋燭がまだ燃えていた。

 恭介は仏壇の側に寄って、正座した。線香をつまんで手折り、そっと蝋燭の火にかざす。仏壇の手前で祖母が優しそうに微笑んでいる。供えられたお茶は毎日変えられているようだ。

「麦茶しかないが」

 合掌していると、背後から祖父が声をかけてきた。

 相変わらずの仏頂面だが、氷を浮かべた麦茶のグラスを勧めてくれた。

 こたつを挟んで祖父に向かい合う。恭介はなんだか受験の時の先生との二者面談を思い出した。

 さて、どう言葉を切り出したものか。

「あのさ、俺……」

「分かっている」

 遮るように祖父が言った。二の腕を組んで伏せていた目を上げた。

 しかと恭介の顔を見据える。

「久子に言われて来たんだろう。全く。何度言われようが返事は変わらないというのに」

 久子、というのは恭介の母だ。つまり、祖父の実の娘。久子は最近、高齢を理由に都内へ引っ越すよう何度も祖父に電話をかけていた。

「田舎に一人暮らしなんて寂しいでしょう?世話なら私がみるからこっちで一緒に暮らしましょうよ。通院だって車で片道一時間もかかってるじゃない。それに、何かあった時に私たちもすぐに駆けつけられないもの」

 母の言い分は分かる。一昨年に祖母が他界してからこっち、母なりに祖父を心配しているのだ。

 だが祖父は住み慣れた家を手放す気はなかった。娘の言葉に意固地になって首を縦に振ってくれないのだろうと母が嘆いていた。そこで、説得役に恭介が指名された訳だ。可愛い孫にお願いされればさしもの堅物な祖父も折れてくれるのでは、いや折れるまではいかなくとも少しは意固地が揺らぎはしないかと母は期待しているようだ。

 だが、その通りだと言うのが嫌で恭介は「じいちゃんの顔が見たかっただけだよ」と視線を逸らした。正座した足をもぞもぞ動かす。慣れない体勢にすぐ痺れそうだ。

 それきり会話が途切れた。遠くで変わった鳥の鳴き声が響いている。

 不意に祖父が立ち上がって奥の部屋へと行ってしまった。しばらくして戻ってきた祖父は作業着に着替えていた。

「外に出なさい」

 家の裏には祖父が所有している山が広がっている。

 祖父は倉庫から様々な大きさの鉈を持ち出してきた。他にも恭介が知らない器具を地面に広げた。

「これは木登りガニと呼ぶ」

 二股に分かれた板状の金属製器具を持ち上げて祖父が言った。

「カニ?」

「靴につけて、幹に引っ掛ける。ここ一帯は杉ばかりだから、これがないとよく滑る」

 祖父が指差した山の一本は、恭介の目には他の木とそう変わらないように見えた。杉といえばもっと細長い印象があるが、その木は横に枝を何本も伸ばして何やらもったりした感じがする。

「あれは若木だからまだ背が低い。数年すればもっと伸びる」

「まだ伸びるの」

 若木と呼ばれた杉は、既に恭介を二人縦に並べたより高い。

 祖父は若木の側に行くと、木登りガニを靴の上から慣れた手つきで装着し始めた。

 祖父の家はもともと林家だ。ただ、祖母の死をきっかけに廃業したと聞いている。作業着も道具もその時のものだろう。

 木の幹と自身の体を安全帯で固定すると、祖父は木登りガニを幹に刺し杉の木を登り始めた。安全帯に背中を預けているため、祖父の体は宙に反らしているように見える。

 枝の伸びている高さまでくると、祖父は両手を離した。

 落ちる、と咄嗟に思った。声こそあげなかったが、恭介は祖父の方に一瞬駆け出しかけた。

 もちろん祖父は落ちなかった。木登りガニで足場を確保し、安全帯で体重を支えている為、祖父の体は宙でも安定していた。

 腰のベルトから小ぶりの鉈を取り出すと、祖父は若木の枝の根本目がけて振り下ろす。まだ細く柔らかい枝は二、三回も打ち据えられると剥がれるように幹から落ちていった。

 一歩上に登って、安全帯を幹に引っかけ直し、別の枝を切り落とす。そして、また一歩上に登る。それを何度か繰り返すと、若木はどんどんと真っ直ぐになっていくようだった。余分な枝が削ぎ落とされた後では、幹が歪みなく天に伸びているのがはっきりと分かる。

 祖父が降りてくると、散髪を終えた若木はすっかり杉の木だった。

 よくよく見やると周りにも既に枝を落とされた後のものがちらほら見える。

「時々こうやって枝を切らんと、日の光が地面に届かなくなる。すると後から生える背の低いのに栄養がいかなくなる。後は雑草だな。こまめに手入れしてやらんと、土が痩せる」

 戻ってきた祖父は恭介に言った。こんなによく喋る祖父を恭介は知らなかった。

「人が手入れせんと、里山はすぐに駄目になる」

「さと、やま?」

「里山はずっと人の暮らしに寄り添ってきたんだ。でも生活が変わって、みんな山から離れた生活をするようになっちまった」

 よっこいしょ、と近くにあった切り株に祖父は腰を下ろした。首からかけたタオルで汗を拭う。

「この山は俺の祖父の代からずっと育ててきた場所だ。廃業しちまったが、手放す気にならん。もう俺の生活の一部になっている。俺が生きて手の届く限りはここを守らにゃいかん」

 それきり祖父は黙ってしまった。いつもは険しい目が、穏やかに緩んで山を見上げていた。

 林家としての祖父の姿を恭介は見たことがない。幼い頃、夏休みに遊びにきた時には、カブトムシやクワガタムシを捕まえるために夜明け前に祖父の仕掛けてくれた罠を祖父と父とで山に見に行った。まだ元気だった祖母が山で取れたと言っていた山菜や茸で佃煮や炊き込みご飯を作ってくれた。どれも昨日のことのように覚えている。

「なあじいちゃん。俺にもやらせてくれ」

 なぜそう言ったのか、自分でも分からなかった。

 仕事を継ぐつもりもないのに。だが恭介にも、この山を手放しがたいと言った祖父の気持ちが分かる気がしたのだ。

 祖父は驚いたように目を見張ったが、すぐににやりと笑った。

「駄目だな。高所作業の資格がいる」

「え」

「まあ講習を受けるだけだからすぐ取れるがな。それより枝を集めるのを手伝ってくれ。貴重な男手だからな」

 またよっこいしょ、と立ち上がると祖父はさっさと山へと歩いていった。

 恭介は慌ててついていく。

「もしかして最初からそのつもりだった?」

「当たり前だ」

 祖父は振り向かなかった。

 初めて見る仕事をする祖父の背中は、なぜかとても大きく誇らしげに見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

多摩の杉 駄文職人 @dabun17

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ