第11話 夏休みの終わりと不穏の始まり

「……。」

「ハシビロ…。」横にいる田口がそっと俺の顔をのぞき込む。「生きてる…よな?」

 田口がそう尋ねてくるほど、今の俺はひどい顔をしているのだろうな…。そう思いつつ、俺はあいまいに笑ってうなずいた。なぜここまでひどい顔なのか。

「また、厳しい言葉を三ツ輪部長にかけられたのでしょうか。」

 宮川の言葉で、俺は今日の地獄を思い出す。

 夏休み最後の週が始まり、俺は文芸部の部誌に載せる作品の執筆に取り掛かった。と、言っても、もう一応文章自体は出来ていたので、部室でやるのは校正された文章を手直しする作業だ。しかし、部長の校正は恐ろしい。ただ文法ミスがあるか否かだけでなく、「面白いかどうか」もチェックされるからだ。俺は去年、五回もやり直しを命じられた。そして、今年も既にその気配がある。

「大きく『文章が分かりにくい』って赤で書いてあって…。その横にどこがどう分かりにくいかがビッチリ…。」

 助言を元にまた書き直すのだが、今度は「文章がくどい」と指摘されたり。あっちが立てばこっちが立たずで、なかなか部長のめがねに叶うものが出来ないのだ。

「おおう…。」田口がほぼ息だけの声をもらした。「鬼編集長だな…。」

 だが、この校正が無かった年は部誌の売り上げが十分の一まで落ち込むらしい。だから、どれだけ心がボキボキになろうと、校正を無視するという選択肢は無い。

「は、ハシビロ君!今からコメダ行く!?そうだ、カツサンド食べよう!」

 ああ、俺狩谷さんにフォローされてる…。よっぽどひどい顔をしているんだ…。確かにこの心理状態と、年々強くなっているような気がする夏の日差しに、俺の気力と体力がゴリゴリと削られている。足だけは機械的に動かせているけれど、思考は完全に停止中だ。せめて暑いのだけなんとかするって意味では、クーラーの効いたコメダに行くのもありかもな…。とにかく暑い。

「……じゃあ、お言葉に甘えて。」

 と言って狩谷さんの方を見たら、いない。あれ、と周りを見ると、狩谷さんは三歩ほど後ろで止まって上を見ていた。

「狩谷さん?」

 先に気付いた田口が狩谷さんの方へ一歩踏み出したとき、狩谷さんがはっとそちらを見た。

「だめ!」

「え!?」

 田口が驚くのと同時に、狩谷さんが頭から田口に突進した。勢いで突き飛ばされた田口は、脇の田んぼに頭から落っこちた。俺は上を見た。―人影。全身から血の気が引く。

「たっ、田口君!?」

「!だめだ宮川!」

「二人とも逃げて!」

 狩谷さんの叫び声。駆けよろうとした宮川を引っぱり、俺はその場から走って逃げた。

カン!カン!

 後ろで金属音が聞こえた。先ほどとは全く別物の汗がどっとふき出す。

「は、ハッシー!?」

「あいつらだ!」

 息を切らしながら俺は叫んだ。「狩谷さんを狙ってる、親戚!」

「…!でしたら、こちらへ!私のバイト先に逃げ込みましょう!」

そう言って、宮川が俺を引っ張る構図に変わり、そのまま住宅街の細い道に入る。―さすがに宮川だ。状況把握だけじゃなく危機回避の提案までしてくれる。ほどなくして狩谷さんと田口が追いついた。

「あれが例の親戚か!おっかねえ!」

 田口が軽口っぽく言うが、声には焦りが出ている。

「あと十五分ほど走れば着きますから、しっかりついて来てください!」

宮川が叫ぶが、俺は返事する余裕もない。この中では一番足も遅いし体力も無い。宮川を先頭に、引っ張られる俺、田口、狩谷さんと続く。

「田口君左にとんで!」

「っとぉい!?」

 田口がとっさに反応すると、すぐ右を苦無がかすめていく。

「志保ちゃん右!」

「はい!」

 今度は宮川だ。俺を引っ張ったままよけるので、俺もおのずと右へと体が動く。これ、俺と手をつないでいるせいで宮川がケガするリスクもあるんじゃないか。

「宮川、手を―」

「ハシビロ君うし―」

ぼす!

「うえっ?!」

 鈍い音と同時に背中に軽い衝撃。驚いた拍子に宮川と手が離れた。

「は、橋本!」田口のぎょっとした声。「リュックに苦無刺さってる!」

 今日は部活だけで荷物が少ないので、いつもの学生鞄ではなくリュックで来ていたのが幸いした。でも、もしリュックじゃなかったら―

走れ。とにかく逃げろ。足を動かせ。思考ではなく、生存本能がそう命令し、俺の体はトランス状態になっている。息が苦しいのも足が痛いのも忘れた。とにかく前へ足を出さなくては。さもなければ、殺される。体力が無くて思考する余裕が無くなっている事は、俺にとっては救いだった。下手に考える余力があれば、どうあがいても「死ぬ」可能性しか考えられず、恐怖で動きが鈍ってしまっただろうから。

「ハシビロ君左!」

「うっおぅ!」

 足をもつれさせ、危うく転びそうになりながら何とか踏みとどまって避ける。苦無はズボンをかすめ、布がパッカリと裂けた。狩谷さんの声があるから、どうにか苦無の直撃は全員避けられているが、段々降る苦無の数が増えている。―まさか敵の数が増えている?だめだ、考えるな。思考したって、足を動かす以外何も出来ない。

「次の角を左に曲がりますよ!」

 宮川が叫びながら道を曲がると、広い道に出た。以前は飲食店や雑貨屋などがごちゃごちゃと建った賑やかな通りだったのだが、駅周辺に大型ショッピングモールが出来てからはさびれてしまった通りだ。そのため、上空の刺客への抑止力になりそうな「人の目」は望めそうにない。

「橋本!止まるな!」俺の腕をぐいと引っ張ったのは田口だ。道が広くなったから、横に出てきたのだろう。

「ご、ごめん田口。」

「最悪、引きずってでも逃げるからな!」ちょっと引きつった笑顔で田口がまた軽口を言った。それを聞いた俺は、少し恐怖がまぎれた。

「ここをまっすぐ行けば着きますから!」

 宮川がこっちを振り返ってそう叫んだが、その表情が固まった。

「宮川?」

「狩谷さんがいない!?」

「はいっ!?」

 俺と田口も振り返る。田口の後ろにいたはずの狩谷さんがいなかった。まさか、と思って空を見た。

 最初に見た時よりやや高度を下げているので、こちらを狙う敵の影がはっきり見えた。皆体をほぼ水平にして、腕は真っ直ぐ横にのばしたまま旋回している。足は片方をピンとのばし、その膝の少し下あたりにもう一方の足の裏をぴったりくっつけている。人数は三人、全員上から下まで真っ黒な服を着ていて、性別すらよく分からない。

「あっ!」

 田口が叫ぶ。人影の一つが頭を下にして一気に降下し始めた。まさか、その先に狩谷さんがいる!?

「狩谷さんが!」

「田口止めろあぶねえって!」

「待って!様子が変です!」宮川が指さした方向を、俺達は見た。―降下した人影が、よく見ると腕をバタバタとさせ、落ち方もふらふらしている。あれは、獲物を狙って急降下する動きではない。墜落しているのだ。よく目を凝らすと、相手の顔面はショッキングピンク色。

「……カラーボールだ。」

 思い出した。狩谷さんは自衛用にパチンコとカラーボールを持っていたんだっけ。つまり、俺達が角を曲がったのを見計らって、相手を迎撃しているんだ。

「じゃあ、狩谷さんは無事なのですか?」

 宮川がそう聞くので、俺は多分、と答えた。確かめたいところだが、今飛び出していいものだろうか。俺達三人は丸腰だ。そこで相手がこちらを狙って来たら、狩谷さんまで危険な目に遭ってしまう。今なら少なくとも相手と狩谷さんは互角―

「いやいや、危険には変わりねえって!」

「田口!飛び出したって意味無いだろ!」

「ほっとくのか!」

 田口が苛立った声で叫びながらこっちをにらんだのと同時に、二人目が墜落していった。

「あっ」

 そして、三人目が旋回して飛び去って行ったのを見た。俺の視線に気付いた田口が振り返り、上を見た。

「あれ?いなくなってる?」

「助かったようですね…。」宮川がほっと息を吐き、その場で座り込んだ。「あ、力が、抜けました…。」

「ごめんみんな!」

 ドタドタっと狩谷さんが走ってきた。「あああ志保ちゃん!?大丈夫!?どこかけが!?」

「ち、違います。腰が、抜けただけで―」

「こしぬけ!?え、はめなきゃ!」

「いえ、脱臼したわけではありません。」

 こんな時でも天然発言が…。

「なんか腰も気も抜けるな」と横で田口が苦笑いした。「なあ宮川。もしかして宮川のバイト先ってマルセーか?」

「え?」俺は田口を振り返った。「マルセーってこの近くなのか?」

「そうです。スタッフだけのスペースに逃げ込もうと思ったのです。」宮川が答えた。「そうすれば、例え相手がお客さんのふりをして店に来ても、どうにかやり過ごせるかと思いまして。」

 あの短時間でそこまで考えてこっちに来たのか。本当にすごいな。

「せっかくだし寄っていこうぜ。イートインスペースあったよな。」

「ありますよ。……ふっ、むっ…。」

「志保ちゃん、立てる?」

 宮川がまだ立てないのを見て狩谷さんが肩を貸した時だった。田口の顔がひきつった。

「田口?」

 俺が尋ねたのと、田口が狩谷さんと宮川をつきとばし倒れたのが同時。そして、視界にさっと落ちていった黒い何か。

「―田口君?」

 宮川のつぶやくような声。田口がうめき、そしてごろりと横に転がる。太ももを押さえた指の間からにじみ出る赤。苦悶の表情。

「田口君!」

 半狂乱の狩谷さんの叫び声。俺は上を見た。―まだ一人いた!

「!狩谷さん」

 人影が動くのを見た俺がとっさに叫ぶと、狩谷さんははっとした顔になる。と同時に、降って来た苦無をスマホではじいた。勢いを失った苦無がカラリと音を立てて転がる。いくつもいくつも。

「田口!」

 俺は田口に駆けより、ハンカチで太ももを強く縛った。傷が大きい。すぐには血が止まってくれない。背中に刺さった苦無を抜くと、田口がうめいた。

「田口!痛むか?」

「だ、だいじょぶ…。」顔だけ少しこちらに向け、無理に笑って見せる田口。額に脂汗が浮いている。「いてえけど…そんな、深くない…。」

「タオル借りるぞ。」田口が首に巻いていたタオルで、背中の傷をぐっと押さえる。

「おい!」

 俺を気にかけながら、狩谷さんは田口の前に立って人影に向かって叫んだ。

「私を連れ去ってお父さんを脅すのが目的でしょ!だったらそうして!そのかわり、友達に手を出さないでよ!」

「か、狩谷さんそれは」

 そんな、自分を盾にするのはまずい。相手が約束を守る保証なんて、どこにもない。絶対、俺達も狩谷さんも殺される。苦無は狩谷さんにますます多く降り注ぎ、狩谷さんはそれを今度はパチンコで撃ち落としている。目は赫、鷹の目。敵だけをただ見つめている。―射すくめられるような目。それは普段からそうだ。でも、今日の目はさらにぞっとする目だった。苦無を落とし、さらに敵に向かって石を放つ狩谷さん。そのおかげで、もうこちらに苦無は来ない。助けられているはずなのに、俺は彼女に恐怖を覚えた。

「大丈夫かー!」

「宮川さーん!」

 ふいに声がした。前方から、エプロンをつけた大人が数人走って来る。すると、それまで降っていた苦無がぴたりとやんだ。俺はすぐ上を見た。敵がこちらに背を向け飛び去って行くところだった。

「―てやる。」

 暗い声。狩谷さんがにぎりこぶしほどの石をつがえて、ぎりりと引っ張る。狩谷さんの赫い鷹の瞳が敵をにらみ、そして大きく見開いた瞬間、石はヴんと鳴いて飛んでいき、敵の背中に命中した。人影はふらふらとバランスを崩しかけたが、ついに撃ち落とす事は出来なかった。パチンコが届かないほど距離が開いた後も、狩谷さんはじっと敵影をにらみ続けている。

「店長!田口君が!」

 宮川の声で、俺は我に返った。エプロン姿の人達はマルセーの店員さんだった。店長と宮川が呼んだ男性が、救急セットから取り出した包帯で背中を止血してくれていた。どうやら宮川はいつの間にかマルセーに電話をかけて助けを求めたらしい。

「自分で通報すればよかったのですが、頭が真っ白になってしまいました。田口君の、けがが、血が」

「いや、助けを呼べたのがすごいし助かったよ。ホントありがとう。」俺は涙声になっている宮川の背中をさすりながら言った。

「田口君!」狩谷さんが田口に駆けよった。目からは鷹が消えている。「ごめんね、私のせいで―」

「だ、大丈夫。」

 田口は声を出したが、まだ苦しそうだ。「や、ちょい、びびった…たはは。」

「もうすぐ警察と救急車が来るはずだよ。」店長さんが言う。「ここは道の真ん中だし、せめて歩道に寄ろうか。」

「田口、体起こせるか?」

 俺と店長さんで肩を貸し、足をひきずるようにしてゆっくり歩道側に移動した。そこで救急車と警察が到着。田口は病院に運ばれ、残った俺達は警察に事情を聞かれた。

「鷹野家の事は、言わないで。」

 狩谷さんは警察が来るより先にそう言った。なぜですか、と怒り交じりに抗議した宮川に、狩谷さんが冷え切った声で短く答えた。

「つかまるのは、下っ端の下っ端だけだから。それに―みんなにまで報復が来るのは耐えられない。」

「ほう、ふく?」

 俺も宮川も、言葉の意味が分からなくてオウム返し。狩谷さんが続ける。

「今までは私や家族しか襲われた事無いから、可能性の話だけど…。警察に鷹野家の事を話したら、逆に個人を特定されるかもしれない。そのぐらいの情報網を相手は持ってる。」

「……。」

「今はまだ『狩谷あずさの友達』か、『たまたま一緒に帰っていた同じ学校の生徒』ぐらいにしか思われてないと思う。でも、次からは『宮川志保』だから狙われるって事があるかもしれない。」

狩谷さんの話を聞いても驚かなかったし、あり得る話だと思ってしまった。相手は丸腰の相手に向かって、絶対に反撃されない距離から執拗に武器を投げてくる連中だ。どんな目に遭わされるか分からない。俺は狩谷さんに確認して、警察には犯人の服装と背格好だけを話すことにした。

警察の事情聴取が終わると、両親が迎えに来ていた。母さんは何度も何度も俺の怪我を確かめ、命に別状が無いと分かると、俺をひしと抱きしめて泣いた。 

「通り魔に襲われたって聞いて、まさか、って―」

 どうやら表向き通り魔という事になっているらしい。実際には、旧家のお家騒動が絡んだ殺人未遂だ。―またあるかもしれない。そう思うと、じっとりした寒気が背中をつたった。

「ハシビロ君…。」

 小さな声に振り返ると、狩谷さんだった。顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。目には悲壮感と絶望感、そして俺に対する悔恨が現れていた。さっきの、敵を見ていた時の恐ろしさは無かった。

「ごめんね…。」風にかき消されそうな声だった。狩谷さんは悪くないよ、と俺は言ったが、狩谷さんはぶんぶん首を振った。

「…ハシビロ君に助けてもらった時あったでしょ。」

「え?ああ、帰り道に二人に追いかけられてた時?」

「うん…。」狩谷さんが小さくうなずいた。「……あの時に、もう動けば良かったんだ。」

「動く?」

「…もう、あっち側に私の場所がバレてる。だから、転校して、また行方をくらませれば―こんなことにならなかった。」

 転校。

「ごめんね。全部撃退するとか、えらそーなこと言ってて、結局皆を巻き込んで…。一番悪い結果を招いたんだ。」

 …なんと声をかけるべきか、分からない。確かにあの時の狩谷さんは異常事態に慣れ過ぎだと思ったが、よく考えれば、慣れさせてしまった側に問題があるのだ。すなわち、田口にけがをさせ、狩谷さんを追い詰めている鷹野家が悪い。

「……鷹野家を諦めさせることは出来ない?」

俺が聞くと、狩谷さんが力なく笑って首を横に振る。

「言って止めるような人達だったら、とっくの昔に諦めてるよ。お父さんが結婚する前からなんだよ、この追いかけっこ。」

 愚問だったな、と思った。今までだってあらゆる手を尽くして来たのだ。ここに転校してきたときも含めて。でも、それでも見つかり、追いかけられる。鷹野家をどうにかする事は出来ない。犯罪を犯しているという意識もない集団だろう。俺達の常識が通じる相手ではないから、俺が思いつくような手段では止められないし、俺が思いもよらないような危険の引き金を知らず引く可能性すらある。

「ごめんね、引き留めた。」狩谷さんがそう言った時、車が一台停まった。出てきた女性が狩谷さんを見て駆けてくる。おそらくお母さんだろう。

「じゃあね、ハシビロ君。」いつもの、明るい声で狩谷さんは手を振り、俺に背を向け走って行った。

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