「ジャッカル」と「ゴート」 十


    十二


 望んでいたとおり、ある種の変化は訪れたが、それでもスタンリーは動くことができなかった。彼自身のその背後に、拳銃を構えた男が立っていたからだ。

「動けば、あんたの頭が吹っ飛ぶぜ」

 二十歳やそこらの運び屋風情に正しく銃が扱えるのかは疑わしいところだ。されどこのジョッシュという若造は、少なくとも追手の警官一人を退けてはいる。賭けを打つべき相手とは言えない。

 流れる冷や汗を誤魔化そうとして、スタンリーはわざと冗談めかした声で言った。

「あいつはどうしたんだ? お前を追っていった奴がいただろう」

「寝てるさ。きっと、規則正しい生活を心がけているんだろうよ」

「やったのか?」

 彼のその質問に、ジョッシュは少しのあいだ言葉を詰まらせた。質問の意図について、正確に捉えあぐねているようだった。

「おいおい、助け船が必要か? つまり、『殺したのか』って訊いているんだ」

「ああ、そんなわけないだろう。俺だって、警官を刺すほど馬鹿じゃないぜ」

「なるほどな。でもお前はいま、その警官と呼ばれる種類の人間に銃口を向けているじゃないか。殺すつもりがない相手に銃を向けるのはおすすめしないぜ」

「どういうわけか、こうなっているんだ。好きでやってるんじゃないぞ、こんなバカげた真似」

 そんな二人のやり取りを前に、ザックはただ黙って立ち尽くすばかりであった。この男の手にも相変わらず拳銃が握られたままである。つまり、スタンにとっては差し迫る脅威が二倍に増えたということになる。

 ひとりの若造がまた別の若造を打ちのめし、武器を奪って戻ってきた。実に厄介な話だ。カイルを単独で行かせたのは間違いだった。探偵に銃を奪われたのはそれに輪をかけて不味い。あらゆる思惑が外れ、スタンリーはいよいよ窮地に立たされていた。そうした状況でありながら彼は、ともあれ一つの謎が気にかかって仕方がなかった。そのため、まずはそちらを優先して片付けることに決めた。

「どうして戻ってきたんだ?」

 あの状況で追跡者に対処したのなら、そのまま宵闇の街に姿を消すことも可能だったはずだ。にもかかわらずこの運び屋は戻ってきた。それも、警官から武装を奪うというリスクを負ってまでだ。はっきり言って理屈に合わないことである。

 スタンリーの発したその問いに、ジョッシュが答える。

「理由か? まあ正直、俺にもはっきりとはわからないね。ただ、そこの奴にはちょっとした借りがあるんだ」

 それはザックを指しての言葉とみて間違いない。背後に立つジョッシュの身振りなど知る由もないが、そのていどはスタンリーにも察しが付いた。

「俺を追ってきた奴が警官だったってことは、あんたもそうなんだろう? そこの探偵野郎は気味の悪い奴ではあるが、俺のせいで豚箱行きっていうんじゃあ寝覚めが悪いからな。見捨てるには忍びないさ。まあ多分、そんなところだろうぜ」

 この運び屋の言葉にどういうリアクションを見せるか、とザックの表情をあらためるが、この慎重な男はあくまでも沈黙を貫き通すつもりであるらしかった。

 油断のならない警官が次にどんな行動を起こすだろうか。また、もし仮にこの場を切り抜けたとて、その後はどこに向かうべきなのだろうか――。

 推測するに、そんなことでも考えているのだろう。

 相変わらず言葉を発さぬザックに代わって、口を開いたのはスタンリーだった。

「よく聞けジョシュア・ハーヴェイ。はっきり言って、お前に逃げ場はない。これから先いったいどこに逃げようが――」

「オーケイオーケイ、わかっているさ。みんなが俺を狙っている。だろう? ほかでもない、デモニアスからのお達しだからな」

「そう、みんなだ」

「腕の立つ奴も、頭の良い奴もだ」

「あるいは、腕も頭も冴えない輩でさえ、な」

 奇妙な感触だった。方や背中から銃を突きつけられていて、方やその銃を突きつける側である。にもかかわらず、この両者のあいだで事態が動く気配がまったくない。彼らはお互い途方にくれていて、この格好のまま朝を待つしかないというような様子すら見せていた。

 実際、スタンリーには手の出しようがなかった。このジョッシュという小僧に警官殺しの汚名を背負うほどの度胸があるとは考え難いが、しかしザックのほうはというとそのかぎりではない。この寡黙な男も、いまこの瞬間こそ落ち着きを取り戻してはいるものの、ついさきほどジョッシュが姿を現すまでは、一触即発とも取れる気迫を見せ付けていたのだ。

 ともあれ、この運び屋の小僧にはどうあってもご退場願わなくてはならない。そうすれば、旧友を鉛玉で制圧するに値するだけの正当な理由を、再び手にすることができるのだ。

(とはいえ……控えめに言っても)

 やはり、これは手詰まりというものだ。この場の主導権は完全に相手方の手中にある。ザックが何かしらの決断をくださないかぎり、当分は停滞が続くことになるだろう。

 が、そうしたスタンリーの予想は、結果的にはまったくの見当外れということになった。このとき彼を取り巻いていた現実は、彼の想定とはまるで異なった方向へと、止まることなく動き続けていたのである。

 スタンリーは最初、その変化を音という形で受け取った。運び屋が立っていたはずの背後から突然、呻き声のようなものが聞こえてきたのだ。やや不鮮明にこもった調子ではあったが、それは間違いなく何らかの苦痛を訴える種類の声色だった。

 その音をスタンが聞き取ると同時、彼と向かい合って立つザックの表情が異様な反応を示し始めた。驚きに見開かれたその両目が、スタンリーの肩口を飛び越えて彼の背後へと釘付けになったのである。 

 そういうザックの視線につられるようにして、スタンリーは反射的に振り返った。不穏な気配で満ち満ちた、彼自身の後方へだ。

 そこに見えたのはカイルの姿だった。その年若き警官は、真っ赤な雫の伝うナイフを手に下げたまま、焦点の合わぬ目で中空を睨みつけつつ、その場に立ち尽くしていた。茫然自失といった様子の彼の足元には、背中を押さえた状態で地面にのたうつジョシュア・ハーヴェイの身体が転がっていた。何が起こったのかは容易に想像がついた。誰が誰を刺したのか、が。そこにいる誰もが瞬時に状況を理解していたことだろう。ただ一人、凶行の主だけを除いては。

 先に動いたのはザックだった。さらなる追撃を恐れてか、彼は素早い動作で手中の銃をカイルに向けた。指はトリガーにかかっている。すぐにでも発砲できる状態だ。

 ザックがそうするのに合わせて、スタンリーはたじろぐようにしゃがみ込んだ。当然、誤射の可能性を考慮しての行動でもあったが、実のところ、スタンの真意は別のところにあった。彼は小さく身を屈めるようにしながらも、人知れず己の足首に手を伸ばしていたのである。より詳しく言えば、そこに収められた三十八口径に、だ。

 そこから先は一瞬だった。二度の閃光と二発の銃声。それらの炸裂を皮切りにして、音と光とが千々に空間を駆け巡り、いくつもの銃弾が飛び交った。

 この街ではいつも同じだ。いったい何が起ころうと、最後の光景は変わらない。たとえどんな場合であろうとも、最後に残るのは硝煙の匂いと死者だけだ。

 右目は完全に見えなくなっていた。嘔吐感を伴う痛みを感じたが、もはやどこが痛むのかすら判然としなかった。全身の血が燃えるようでやけに暑い。

 すぐ目の前で誰かが倒れている。その死体の主がどこのどいつだというようなことは、今となってはどうでもいいことだ。誰あろう、このスタンリー・コーラーにとっては。「引退」した身で気にすることではない。

 ふと見上げると、信じられないことにいまだ血に濡れていない人間が一人だけいた。背が小さく、肩幅も狭い。彼はまだ子どもなのだ。

(ちゃんと、最後には会えるもんだな)

 ほどなくしてスタンリーは、離れて暮らす息子の顔を眺めながら、最後の一息を吐ききった。

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