「ジャッカル」と「ゴート」 九


    十一


 逃げる者を追ってこその警官だ。実情はどうあれ、とにかくカイルはそう考えていた。

 そのせいか、ジョシュア・ハーヴェイと見られる人物が逃走を始めた瞬間、彼の両足はスタンリーの言葉を待たずして動きだしていた。こういった瞬発力こそ本物の警官の才能だ。慎重であることも大事だが、最後にものを言うのは機転と反射神経なのである。

 やりにくいのはこの建物の構造だった。太く、四角い柱がいくつも並んでいるせいで、足音がでたらめに反響するのだ。ただでさえ暗闇で視界不良だというのに、聴覚にも頼れないのではいかんせんやりようがない。狙ってこのシチュエーションに持ち込んだのだとしたら、相手は年齢によらず場慣れしているということになるだろう。

 かといって、ここで諦めるような真似ができようか。この運び屋ひとりを捕らえさえすれば、連日のプレッシャーから解放されるのだ。その事実を大きな希望にして、カイルはどうにか相手に食らい付いていった。

 絶えず位置を変える音の大小と、僅かに見える背中とを目印にして、カイルはだだっ広いばかりの立体駐車場を下へ下へと駆け下りた。だんだんと暗さにも慣れ始め、そろそろ決着も近いかと思われたとき、突然に足音が途絶えた。逃亡者が足を止めたのだ。どうやら、相手は攻め方を切り替えたらしい。

 こうなると厄介である。判断しなければならないことが途端に増えるからだ。何よりもまず相手の思惑だ。逃げるのをやめた人間がどう動くか? もしかすると「窮鼠猫を噛む」という言葉のとおりに、思い切った反撃に出るかもしれない。反面、それと同程度の確立で、ひたすらに隠れてやり過ごすという戦法を取る可能性もある。後者であればまだいいが、万が一にも前者であった場合、警官の死体が一つ増えることにもなりかねない。いわずもがなカイルにとっては最悪の事態だ。

 彼はぴたりと壁に背を付けると、身体中の全神経を尖らせた。そうしながら、ホルスターから拳銃を取り出す。安全装置を解除する。角ばったグリップを握りこむと、自然と手の平に汗が浮かんだ。

 整然と並ぶ柱の合間合間には、まばらに車両の姿が見えていた。まるで統一感のないランダムな車種とカラーとが、カイルの視界を過剰に刺激する。

(集中しろ、カイル・ブランフォード)

 足音ひとつ聞き逃すべきではない。緊張のためか荒くなっていた呼吸を鎮めるようにして、彼は昂る精神を落ち着かせようとした。いまは冷静さが勝負の鍵だ。

 どこからか漂うオイルの匂い。遠くに聞こえる救急車のサイレン。ぴりぴりと肌を揺らす風の感触。そういったもののすべてが、普段の何倍もの意味を持つかのようにはっきりと彼の感覚器を刺激していた。が、それらは一様にまやかしに過ぎない。本当に価値のある情報とは、常に最も小さな変化を知らせるものであるのだ。隠れようとする者は、呼吸や心臓の音にさえ注意を払うのである。

 そのとき、カイルの後方でぱちりと音が鳴った。砕けたガラスの破片を踏んだような音だった。

 またしても意識より先に身体が反応した。見るからに警官じみた肩幅の広い胴体を翻し、カイルが振り向く。頼りにできそうな光源は駄目になりかかった蛍光灯の光のみ。真夜中ではあるが、これならまだ外のほうが明るいだろう。自然とそういうふうに感じられるほど、ひどく陰鬱な気配が漂っていた。

 そうした宵闇を潜り抜けた先には、大きな窓が見えた。ガラスは入っていない。窓というよりかは壁の欠落、というような様相である。そういう巨大な空白が、壁一面に広がっていた。

 上下の階層同士を繋ぐスロープ付近の掲示を見るかぎり、現在地は地上二階部分だ。いざとなればこの壁面から飛び降りて逃げることも不可能ではない。

(もしも俺が追われる側の立場なら、実際にそうしただろうな)

 そう考えた直後、カイルはまたも何者かの気配を察知した。何らかの接触が作り出す物音によって、だ。最前のガラス片らしきものと似たような雰囲気ではあったが、今度は音源の位置がかなり近い。それこそ、眼前の車影から響いてきたというほどの距離感だった。

 カイルは銃把を握る手に力を込めた。そうしたまま、すり足に近い速度でゆっくりと車両に接近する。

 直後、黒い塊が死角から飛び出してきた。重力に逆らうベクトルの動き、意思を感じさせる動作だ。

 カイルは反射的に全身を強張らせた。不意を打たれたとは言い切れないが、だからといって驚きがなかったと言えば嘘になる。ゆえにほんの一瞬ではあるが、それでも彼は自身の意に反し、たじろいでしまった。

 年若き警官が見せた僅かな隙を突いて、黒い影が行動を起こす。それは二本の腕をばたつかせながら、外界の闇に向かって真っ直ぐに飛び込んだ。遮るもののない窓から飛び降りたのだ。

(クソ、やっぱりこうなるか!)

 カイルは右手に拳銃を携えたまま、ついいましがた黒い影が飛び越えていったばかりの窓に駆け寄った。前方の車を乗り越えるようにして一息に距離を詰めるが、時すでに遅し。彼が窓から身を乗り出し、地上の様子を確かめたときには、もはや相手の姿はどこにも見えなくなっていた。敷地内に確認できるのは、不法投棄されたのであろうガラクタばかりである。

 こうなればこちらも飛び降りて追跡するしかない。「建物の二階部分からの着地」という訓練を受けた覚えはないが、幸い運動神経には自身がある。やってやれないことはないはずだ。

 そこで一度呼吸を整えると、彼は腰ほどの高さの枠に片足をかけた。さあ下りるぞ、といよいよ気合を入れなおした瞬間、しかしカイルは大きく体勢を乱してしまった。そうせざるを得ない状況に追い込まれたからだ。

 気付いたときには、彼の首には左右一対の腕が絡みついていた。太さはそうないものの、充分な腕力を備えた二本の腕が、だ。敵の肘関節が首元に食い込み、皮膚の上からカイルの頚動脈を締めあげる。オーソドックスかつ効果的なバックチョークだ。誰に教わったのかは知らないが、非常に正しい形で習得された技術である。

 カイルはその拘束からどうにか逃れようとしたものの、しかし上手くいかない。彼自身が重心の均衡を失っているがために、相手に対抗するだけの適切な筋力を発揮できなかったのだ。

 カイルも相手の顔を見たわけではなかったが、その敵の正体が誰かというのは、もはやわかりきったことである。十中八九間違いなく、技を仕掛けているのはジョシュア・ハーヴェイだ。

 ただの運び屋だと見くびっていた。カイルはいまさらながらにそのことを自覚し、悔いた。ひどく混乱し、正常な思考を保つことさえ困難ななか、そういう悔恨だけが彼の中で確実性を保持していた。

 だがこの運び屋でないのならば、闇に飛び込んでいった影は何だったんだのだ?

 しこりのように残った疑問は、やがてすぐに氷解した。さきほど窓枠から見下ろしたばかりのガラクタのなかに、それらしいものがあったのだ。それは、いやに膨らんだ状態の一着のパーカーであった。察するに、運び屋はそのパーカーの内側にカバンか何を詰め込んだうえで、窓から投げ捨てたのである。

 落ち着いていれば見間違うはずがない。マネキンの代役というにはあまりに粗末な物体を、よもや人影だなどと思い込んでしまうとは。言い逃れのしようもなく迂闊なことだ。裏を返せば、そのようなミスを現実のものとしてしまうほど、この新人警官は深刻に追い詰められていたのだ。

(チクショウ! なんて間抜けな話だ)

 強い自責の念に襲われながらも、カイルは十秒足らずのうちに意識を失ってしまった。

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