「ジャッカル」と「ゴート」 一
一
一週間は何事もなく過ぎ去った。あの夜、行きつけのバーで因縁を付けられた日から、はや一週間だ。
このとき、ジョッシュは暖かい春の日差しを受けながら、ダウンタウンの一角にある公園のベンチに腰を下ろしていた。周囲には人通りが多い。ベビーカーの中から鳴き声を響かせる赤ん坊から、ジョギングに精を出すご老体に至るまで、老若男女が思い思いの午後を過ごす。陽はすでに傾きかけていたが、久しぶりに気持ちのいい空模様だった。
「目立たないようにしろ」、という命令をダンから受けて以降、ジョッシュは多くの時間を自宅に引きこもって過ごすことになった。
彼は元来、不要な外出をするタイプではない。平時の日常生活における外出の機会といえば、日用品や食料品の買い出しくらいなものである。とはいうものの、そうした単純な買い物すら満足に行えないなか、いつ現れるのかもわからない襲撃者の気配に怯えながら、遮光カーテンを締め切った部屋に身を隠し続けるというのは実際、彼の当初の予想を遥かに上回る苦行であった。
(あのままなら多分、ノイローゼだったな)
待ち焦がれた太陽の光が、凝り固まったジョッシュの背筋をほぐす。いまの自分にはこの心地良さこそが何より必要だったのだと、彼はひとり納得した。
バイクは保管場所に置いたままにしていた。例の危ない三人組――ギャングたちが次に行動を起こすとすれば、やはりダンかレイモンド、あるいは自分が標的にされるに違いないと考えたからだ。なんといっても、元はと言えばあのバーでの出来事が発端なのだ。そこからの帰宅中にダンが襲われたのなら、ジョッシュなる「生意気な小僧」が時代遅れのガソリンバイクに乗っているという事実を、相手側が掴んでいないとは限らない。そのことを思えば、いくら唯一の趣味であるからといってもさすがにこの数日ばかりは、愛車に乗って遠出をしようという気分にはなれなかった。そういうわけでジョッシュの愛車は、彼が住処とする安アパートの囲いもないような駐車場の端っこで、いまもまだビニールカバーに覆われたままになっている。
ちょっとした骨休めだと思えばいい――。
ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。それはバイクにしろ、自分自身にしろ、という意味だ。これは不幸中の幸いだが、当分は食うに困らないだけの蓄えはあった。彼とて伊達に危ない橋を渡っているわけではない。二十歳という年齢には不相応なまでの金額が、ジョシュア・ハーヴェイ宅の金庫には保管されている。
彼は、バイクそれ自体は大事に扱っているものの、金をかけてカスタムするような趣味はない。両親を早くに亡くしたことも影響したか、根っから贅沢ができない性分なのだ。その気性が思わぬところで功を奏した、というところだろう。
(一度、街を出るのもいいかもしれないな)
これまでは旅行というものにも縁がなかった。機会がなかったか、あるいは単にそうする気分になることがなかったからだ。無論、ツーリングに興ずることはしばしばあったが、たとえば州境をいくつも越えたりだとか、もしくは、都会から離れた自然のなかで羽を伸ばしたりというような、いわゆるバカンスに類する遠出というのとはさっぱり無縁の人生だった。
彼個人としては、サウスランドシティに大した不満はない。必要なものは何でも揃っている街だ。それが手に入るかどうかは別として、だが。また、旅行に付き合わせるほど親しく付き合う者もいなかった。胸を張って「友人だ」と言えるような相手を、ずいぶん昔に求めなくなってしまったからだ。強いて言えば、運び屋稼業での上司にあたるレイモンドがそれに近しいものなのであるが、二十近くも歳が離れているせいか、あるいは職場の人間だというのがあるからか、どうしても個人的な友人だとは思えなかった。「目上の人間」という感覚を切り離して考えられなかったのだ。
そういう意識があったからか、不意を突いて鳴った携帯の着信画面にレイの名前を認めたときにも、ジョッシュは思い付きの旅行のことを話そうとは露ほども思わなかった。
(骨休めは次の機会だな)
そろそろ日常に戻る時間だ。少なくとも、ジョッシュ自身はそうなることを疑わなかった。
「もしもし、ジョッシュです」
しかしそれは、誤った期待に過ぎなかった。
「ああジョッシュ、クソ、最悪だ。マジで……まずいことになった」
「レイ? どうしたんです、いったい――」
今夜もまた、いつものフリーウェイを行く。ネオンの交錯する宵闇の下を、熱気に任せて走り抜ける。どこぞのチンピラから預かった荷を、またどこかのチンピラへと届けるために。誰にも気付かれず。誰にも頼らず。
「ダンがやられた」
ダンにあれこれと指図を受けながら、ときにそれに従い、またときには刃向かいながらも、決して仕事で手を抜くことはせず、自分の責任は必ず果たす。
「やられた? それじゃあ、病院に担ぎ込まれたとか」
何をするにもリスクが付き纏うが、しかしそれに見合うだけの充実感に溢れた毎日が、この電話を機に戻ってくる。
「そうじゃない、あいつは死んだ、殺されたんだ!」
それは誤った期待に過ぎなかった。
二
思考というのは麻痺したままだが、疲れを感じないのはかえって好都合だ。
ほんの一瞬も速度を緩めることなく、ジョッシュは全速力で通りを駆け抜けた。それから後、ぶち破るほどの勢いで自宅のドアを開け放つと、その足で真っ直ぐに隠し金庫へと向かった。とにかく、いますぐにでもここをあとにしなければならなかった。この安アパートの一室を、というのではなく、生まれ育ったこの街を、という意味だ。
ダンが死んだ。その事実をどう受け止めるべきなのか、彼はわからなかった。さきの夜襲に際してもそうだったが、すぐには実感を得られなかったのだ。最前の夜襲については、治療処置を施されたダンの腕を直接に目にすることでやっと状況を飲み込むことができた。これはジョークではない、と気が付いた。
であれば、今度はダンの死体を見るべきなのだろうか。ギャングから私刑を受け、拷問の末に殺されたであろうその亡骸を目にすれば、この混乱は治まるのだろうか。
いや、この場合「ダンの」というのは不適切だった。正確には、「ダンたちの」という言葉を使わなければならない。殺されたのは彼一人ではなかったからだ。レイモンドから伝え聞いたかぎりでも、ダンのほかに一人、命を落とした者がいるらしかった。その男――リチャード・ベイカーことジョニー・リッチモンド――は、ジョッシュがギャングらと口論になった夜に、同じバーに居合わせた運び屋のうちの一人だった。
――今度は俺かお前かのどちらかだ。どこでもいい、さっさと逃げろ――
レイモンドの最後の一言が、何度も頭の中でリピートされた。その言葉を最後に、レイとの通話は不自然な調子で途切れてしまった。電波が悪くなっただけだと、ジョッシュはそう信じたかった。が、同時に、その期待は叶わないという確信も、彼の胸中にはあった。
逃げなければならない。一分でも早く、一フィートでも遠く、敵から逃げなければ。
敵。ギャング。どこの勢力かも、どれだけの規模を持っているのかも、またどれほどの力を持った存在なのかもわからない。何ひとつ素性のわからぬ相手。自分はこれから、そんな相手の目を欺き、出し抜きながら、自分自身の命を守り抜かねばならないのだ。その事実を思うだけで、ジョッシュは彼自身の両足から力が抜ける思いがした。つい今朝がたまで呑気に寝ていたベッドの上の、自分の身体と同じ形をした窪みが、このときの彼には果てしなく遠い場所のように思われた。
その窪みの中央へ、彼は金庫の中身をぶちまけた。ゴムで纏められた札束。折りたたみ式のナイフ。それぞれ異なる名前の記された、複数の身分証明書。
逃亡用の道具だけは以前から揃えてあった。いつかは必要になるだろう、と考えながらも、なるべくなら、それらが活躍する日が来ないようにとも願いながら。
拳銃は持っていなかった。バイクのナンバーを誤魔化したり、違法なブツを運んだり、逃走のために道路交通法を破るようなことはあっても、さすがに無許可で銃器を所持するほどの度胸はない。さらにいうなら、その手の過剰な攻撃能力はときに、運び屋のビジネスにおいては無用なトラブルの元にすらなる。
護身の道具はちっぽけなナイフのみ。それをワークパンツのポケットに忍ばせると、ほかの荷物はすべて黒いバックパックに放り込む。これでなんとか乗り切るしかない。
震える膝に活を入れる。そうしてから彼は、意を決して自宅を飛び出した。
人通りの多い真っ昼間の住宅街、それも、すぐ近所の駐車場に向かうだけだというのに、愛車のビニールカバーを外すころには、ジョッシュは全身に冷たい汗をかいていた。
セルモーターが回る音さえもどかしく感じる。それでもどうにかエンジンを作動させると、彼は勢いよくアクセルを開けた。それまでの短い人生のなかで、身体の真下から響く排気音がこれほど大きく聞こえたことはなかった。
(街を出るしかない)
目的地はどうでもよかった。西でも、東でも、なんなら国外でも構わない。一分一秒を争う現状に怯えながら、彼は闇雲にハンドルを切った。
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