闇医者 四
四
バリーは私室に帰るなり、一人がけのソファに乱暴に身体を投げ出した。ついでシャツのボタンを外し、脱ぎ捨てる。
怒りがあった。それがどんな原因によるものであれ、彼の平静を乱すには充分すぎるほどの怒りが。
(まったく、年甲斐もないことだ……)
彼は言い訳のように考えた。誰に対して、ということはないが、強いて言うなら、コントロールの利かなくなった自分自身に対しての苦言である。
彼は、ソファの近くに置かれたサイドテーブルへと手を伸ばした。より正確には、テーブル上のデカンターにだ。角ばったボディの透明なガラス瓶の内側は、琥珀に輝くウイスキーによって満たされていた。
ソファにしろサイドテーブルにしろ、あるいはその他のインテリアにしろ、それらの調度品の多くは、どれも慎み深い印象を与える造りのものだった。細緻な人工の造形美をたたえながらも、そこに残されたままの木目が全体の角を取り、優美でしなやかな印象だけをあとに残す。そこには、バリー・フィッツジェラルドという人間の趣向が明確に表れていた。彼が心から求めるのは、品のいい安らぎというものであるのだ。
しかしながらこのときの彼は、そういった安寧とはかけ離れた現実に、心を大きくかき乱されていた。
望まぬ乱入者が館をあとにすると、ザックはまるでそれにならうかのように、すぐに屋敷を離れていった。彼もまたいまのバリーと同様、ある種の無力感に苛まれているのかもしれない。少なくとも、バリーにはそうふうに思われた。
アレックスの横暴はいまに始まったことではない。その父親たるケイン・マルドネスが現役で組織を取り仕切っていたころ、バリーはこの街の闇医者になった。
父親の代は良かった、などと年寄りじみて言うつもりはないが、しかしケインがその息子よりマシな人種だったのは間違いない。
ケインは悪党だが、同時に、敬意というものを忘れない男だった。彼自身が持つに至らなかった技術、経験、力、情熱。そういうものを持ち合わせた人間をケインは評価し、尊重した。その者の人生に――正であれ負であれ――底知れぬ影響は及ぼすものの、概して領分までは侵さなかった。もしもケインが誰かを怒らせるのなら、それは彼自身がそうすることを望むか、あるいは相応の必然性がある場合に限られた。敵が多いのは事実だが、反面、味方を作るのも上手かった。
時折はユーモアも見せた。ある夜、バリーの館に運び込まれた急患を目にしたケインは、それが敵対するギャングの幹部であることに気が付いた。奇しくも、当時のふたりはともに銃創を負った状態にあった。ケインは肩に、相手方の幹部は太ももに、といった具合である。
痛みに喘ぐギャングを前に、ケインは言った。
「お前の腹を外すなんて、よっぽど腕の悪いヒットマンだな。もしかすると、俺のところにきた奴と同じかもしれん。そいつは俺の頭も撃ち損ねやがった!」
中身の詰まった頭を揺らしてケインが笑うと、自然と周りの者もつられて口元を綻ばせた。決して冴えたジョークではなかったが、「お互い、不運は笑い飛ばしてしまおうじゃないか」という態度が、不思議と人を笑顔にさせる。そういうたぐいの罪のない冗談だ。
言うまでもなく、ケイン・マルドネスは善人ではない。非道で知られるギャングのボスだ。だが猛獣のごとき凶暴性とは裏腹に、不意に垣間見せる明るさのようなものもまた、彼の本性には違いなかった。そういう面においては、バリーもこの男の魅力を認めないわけにはいかなかった。
しかし、その後継者たるアレックス・マルドネスは、父親の持つユーモア性を歪んだかたちで継承した。おそらく、アレックスには現実が舞台にでも見えているのだろう。それも、生まれながらのスターたる己を主役にした、極めて趣味の偏ったコメディ・ショーだ。主役だけでなく、監督も、演出も、その他の諸々に至るまですべてがアレックス自身のプロデュースによるものだ。
サウスランドシティという世界都市でさえ、アレックスの脚本上にあっては背景という以上の意味を持たない。それは同時に、そこに生きる人間たちもまた大きな意味を持たないということだ。アレックスは彼らを共演者だとすら考えていない。言うなれば、舞台の小道具のような扱いなのである。
生かすか殺すか、ではない。使うか捨てるか、という感覚で、この男は人間の命を左右してきた。人ひとりの命を、いや、いままでに関わりを持ったきた、何千にも及ぶ人々の人生をだ。
そうだ。この化け物にとっては、この世界そのものが喜劇に過ぎないのだ――。
滔々と考えを巡らせるうちに、琥珀の液体はさらにその体積を減らしていった。そこに追い討ちをかけるように、バリーはデカンターの中身をもう一度、手中のグラスに移し変えた。
本来であればいつでも仕事に取り掛かれるよう、深酒は避けるべきだ。アルコールに霞む視界で、どうして難しい手術になど望めようものか。とはいえ、医者の倫理を語るほどの良識があるのならば、彼ももう少しはまともな人生を歩んでこれたに違いない。
いくつもの纏まらぬ思考を、バリーは一思いに食道へ流し込んだ。
五
それから三日が過ぎた。
驚くべきことに、バリーにとっては休暇のような三日間であった。朝からメスを握ることもなければ、夜中に電話で叩き起こされることもない。ダンフォールが連れ去られて以降、バリーのもとに例の運び屋グループの人間が担ぎこまれることはなかった。ザックのほうもいったいどうしているのだろうか、連絡の一つも寄越さないままだ。
バリーも元来、患者の事情に首を突っ込む性質ではないのだが、こと今回の件に関しては、そう達観してもいられない心境だった。下手に暇を持て余していたせいかもしれないが、私室でリラックスしようと横になるたび、あの化け物の顔がちらちらと浮かんでは消えていくのだ。そのせいか気分は一向に不愉快なままで、何か駆り立てられるような焦燥感が、どうしても頭の中から消えなかった。
そういうこともあって、普段は血なまぐさい話題を嫌うバリーにしては珍しく、自ら進んで情報収集に努めた。幸い、情報源は豊富にある。彼の屋敷には、彼に恩を売ろうとする組織の人間たちが頻繁に訪ねてくるからだ。
方々から伝え聞く内容を鑑みるに、五月二十二日の時点で十二名の運び屋が捕まったと見てよさそうだった。残す逃亡者は二名ということだ。意外なことに、現時点での明確な死亡者というのは、捜索初日に命を落としたというベイカー氏のみであるらしかった。
望むべくなら、これ以上は死人など出るべきではない。人の死に必ずしも意味があるとはバリーも考えてはいないが、だからといって、無用な死を望むほど落ちぶれてもいない。
とにかく、彼にできるのは見守ることのみだった。事の成り行きにしても、また望まざる仕事に従事させられている、たった一人の友人に関しても。六十年にも及ぶ彼の人生においてこのときほど、自らの無力を噛み締めたことはなかった。
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