「ジャッカル」と「ゴート」 二


   三


 ジョッシュは我が耳を疑った。

「ジョッシュ・ハーヴェイだな?」

 男のその言葉はあまりに唐突なものだった。

 行く当てもなく辿り着いたフリーウェイの高架下。何十分も方々を走り回った挙句、とにかくこれからの身の振り方を決めなければならない、とバイクのエンジンを止めたとき、まるでタイミングを計ったかのように彼の背後に黒いクーペが停まった。続けざま、運転席側の窓から顔を出した男が突然、その名を口にしたのである。

「お前が、ジョシュア・ハーヴェイなんだな?」

(この男はどうして俺の名前を知っているんだ?) 

 という考えが束の間に脳裏をよぎったかと思うと、直後、それは別物へと摩り替わった。

(追っ手だ!)

 眼窩の奥でサイレンが鳴り響く。鼓膜が内側から揺さぶられ、頭痛がするほど神経が昂る。その危機感は思考ではなく、直に脊髄神経を刺激した。当人がそうしようと考えるよりも早く、ジョッシュの手足は自発的に動き出していた。

 クラッチを握る。セルスイッチを押す。ギアをローに入れ、アクセルを開ける。そうして最後にクラッチを離す。

 この一連の動作を、これまで何度繰り返してきただろう。誇張ではなく、目をつぶっていてもし損なうことはない。暮れかかる日の頼りなさなど問題にもならない。喜ばしいことに、それは非常時でも変わらなかった。

 いわば本能だ。ライオンに追われるガゼルが、はたして足の動かし方を考えるだろうか。考える前に感じろ。感じる前に見ろ。そして、見る前に逃げろ。運び屋として生きてきたこの二年間で、ジョッシュは実感としてそれを学んだ。

 彼がバイクの両輪を軋ませ始めると、それと時を同じくして、見知らぬ男は追跡者へと変貌した。自身の後方から届く高らかなエンジン音を、ジョッシュは確かに聞き取った。

 片側一車線ずつの広さも交通量もない寂れた通りだ。起伏のない道の左右にはシャッターを下ろしたままの商店や、ガラス窓の割られた、落書きだらけの廃屋などが立ち並んでいる。周りは建物だけで、ひと気はない。カーチェイスにはもってこいのシチュエーションだ。

 道なりに走っていてはジョッシュの側に勝ち目はない。自動二輪車は優れた加速力こそ持つものの、高速域でのスピードは四輪車に譲る。強みを活かすならカーブだ。きついコーナーからの立ち上がりで突き放し、そのまま追っ手を振り切るしかない。

 秒単位で様変わりする風景を、ジョッシュは必死に目で追った。彼がそうするあいだにも、ごうごうと鳴る気流の音がヘルメットの外に聞こえていた。勢いよく吹き付ける向かい風が、後方へのGを極端なまでに強くする。それはあたかも、巨大な奔流と化した運命が、一人の若者を飲み込まんとするかの如くであった。

 だが、そうした逆風のなかにあってなお彼は闘志を燃やしていた。

 単純な話である。追いかける者がいて、逃げる者がいる。普段と何も変わらない。するべきことは一つ。追っ手をまく。ただそれだけでいい。

 信号の色すら確認しないまま、ジョッシュは大通りの十字路へと車体を突っ込ませた。前を横切る車が鼻先をかすめ、それに続く一台が、クラクションを鳴らしつつ猛スピードで後方を通過する。

 はたから見れば自殺願望でもあるのかと思うだろうが、しかしハンドルを握る本人としては、それとはまったく正反対のことを考えている。つまり、どうすればこの道を無事に押し通ることができるのか、ということをだ。

 車両の高さと幅、車両同士の間隔、あらゆる危険に対する予測。時間と空間とが複雑に絡み合う、四次元的な解を求められるパズル。それも、車両のみならず歩行者や曲がり角、あるいは縁石やささいな落下物にまで影響を受けるような、とてつもない難問の連続。

 見るべきは現在ではなく未来だ。知識ではなく、知恵と機転で道を切り拓くのだ。ジョッシュはブレーキと重心とを巧みに操り、眩いライトの大群を垂直に横切った。

 背中に罵声がかかる。いくつも感じる怒りの視線に、彼は見えざる手でサインを返した。ともあれ、背後から悲鳴が聞こえないということは、どうやら例のクーペは無謀な行動は起こさなかったらしい。試しに後方を一瞥してみると、やはり、そこに大きな混乱は見られなかった。迂回したか、あるいは律儀に信号が変わるのを待っているかだ。後者であればありがたいが、望み薄だろう。

 いずれにせよ、いまがチャンスであることに変わりはない。ジョッシュは急ブレーキをかけると、直角に近い角度で方向を変え、狭い路地に入った。ついで、葉脈のように枝分かれする入り組んだ通路をランダムな軌道でなぞっていく。誤って袋小路に入らないよう、彼は鳥瞰するようなつもりで視界を広く保とうと努めた。

 右へ左へとせわしなく頭を動かす。そうしながらも、意識の一部は後方に向け続ける。迫り来る敵の足音、もといエンジンの排気音を聞き逃さないよう、彼は耳をそばだてた。それでなくても身体の直下でエンジンが鳴っているのだ。相手のそれと混同してしまわないよう、かなりの注意が必要だった。

 闇雲に走ったつもりはなかったのだが、気付けばほとんど馴染みのない地域に迷い込んでいた。おそらく、無意識にスパイクボーイズの縄張りを避けていたのだろう。敵方の正体こそ知らないものの、とにかく追われているのは確かなのだ。幾人分もの血走った目が監視しているであろうホームタウンに、のこのこと戻るわけにはいかない。

 かといって、ジョッシュにもこの後の明確な見通しがあるわけではなかった。何しろ、街を出るすべての主要幹線道路に警察の検問が敷かれていたのだ。違法なナンバーの張替えをしている愛車と一緒では、それらを通過するのは不可能だ。ついさきほど、追われる身であるはずのジョッシュがフリーウェイの高架下などで足を止めていたのは、そうした事情によることであった。

 ならば別の交通手段を試すか、という考えも頭にないわけではなかったが、そうすると父親の形見たるこの相棒はどうするのだ、という疑問が自然と湧いてくる。

 命には代えられない。そのことは重々承知しているが、かといって簡単に諦めが付くものでもない。なんといっても、もしもこの局面で愛車を手放してしまったなら、二度と再会できぬだろうことは明らかだからだ。そのことを考慮に入れるなら、ここはやはりほとぼりが冷めるまで身を隠すのが最適解なのではないだろうか? さらに言うならそうして時を待つうちに、ダンやレイモンドの消息に関して何かしらの情報を掴むチャンスが巡って来る可能性もある。

 この街で新たな隠れ家を探すか。それとも、これまでの人生をすべて捨てて、どこか遠い場所でやり直すか。どうあれ、考え事は落ち着く場所を見つけてからだ。

 ほどなくして、路地上空の隙間を何の気になしに見上げたとき、とある廃ビルの真っ白い看板が目に入った。

(ひとまずはここに潜伏だ。あの追跡者をやり過ごそう)

 そう決めてしまうと、ジョッシュは物事が一つ前進したような錯覚を覚えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る