警官 三


    四


 大音量のアップテンポミュージックが鼓膜を激しく打つ。足元を見失うほど暗く、また同時に、網膜に焼きつかんほどに眩かった。ともすれば気分が悪くなりそうなほど、照明が明滅を繰り返していた。時刻は午後四時。夜の帳どころか、まだ夕刻さえ迎えていないのにもかかわらず、クラブ〈マーキュリーサイド〉にはすでに少なくない数の客の姿があった。

 この店は先月、開店から三周年を迎えたばかりだった。人通りの豊富なメインストリートの一等地は、さながら富と華やかさの集積地である。人間がたっぷり詰まった巨大なビル群が見下ろすなか、数十万ドルはするであろう高級車や、欧州製のブランド衣料の行列がショーウインドウを埋め尽くす。富は富を呼ぶ、ということを踏まえれば、商売をする場所としてこれ以上の好条件は望めないだろう。

 多くの目ざとい者たちが他人の隙を窺いあうこの場所で、一つの店を長く続けるのは容易なことではない。だがそれも、アレックス・マルドネスには関係のない話だった。アレックスの店、つまり「マルドネスの店」にちょっかいを出そうという命知らずはまずいない。たとえいたとしても、すぐにいなくなる。アレックスの邪魔建てをすることはそのまま、この街の支配者たるデモニアスに敵意を向けることを意味しているのだ。

 スタンリーはカイルを後ろに控えさせたまま、思い思いに時を過ごす客たちのあいだをすり抜け、慣れた足で店の奥に向かった。何人かの近くを通ったとき、気化したアルコールの香りに混じって、欲望と快楽の匂いが鼻を衝いた。より具体的に表すなら、なんらかの薬物の匂いが、だ。

「放っておいていいんですか?」

 スタンリーの耳元でカイルが怒鳴る。そうでもしなければ、声が音楽にかき消されてしまうからだ。ともすれば自分の声でさえ、周囲の喧騒にかき消されてしまいそうな状況だった。

 若々しい声を張る相棒に負けじと、スタンもまた大声を張り上げた。

「馬鹿を言え。この場の全員を検査にかける気か? 何人を拘束する羽目になるかわかったもんじゃないぞ」

 そもそもそのたぐいの取締りは、正式にそれを受け持つ人間の仕事だ。そうする必要性もないのに他人の領分を侵すわけにはいかない。それにスタンリーらもまた、自分たちが正式に受け持つ仕事をしに来ただけなのである。それ以外のことにまで、手を回す時間も余裕もいまはない。

 やがて、けばけばしいばかりのフロアを抜けると、前方に扉が見えてきた。黒一色の下地に白線で「従業員専用」と書かれた扉である。その傍らには、姿勢正しく背筋を伸ばした警備係が一人、立っているのが見えた。厚めの多機能ベストをきっちりと着こなした警備係は、腰部に警棒とガンホルダーを下げていた。

 ホルダーは小型のものだが、その割りには厚みがある。おそらくテーザー銃だろう、とスタンリーは考えるでもなく考えた。

 スタンは身分証明書代わりのバッジを懐から出すと、警備係の男にそれを見せながら近付いた。続けて、相手が間違いなく聞き取れるように大声で言った。

「オーナーのマルドネスさんと約束がある。スタンが来たと伝えてくれ」

「ああ、うかがっていますよ、コーラーさん。どうぞ中へ」

 警備係はさっと身を翻すと、来客のためにドアを開けた。一見したところ友好的な態度だ。しかしこのとき、ベテラン警官は確かな違和感というものを相手の仕草から感じ取った。

 長年にわたって人を疑う仕事をしてきたからか、スタンリーの身には厄介な癖が染みついていた。他人の些細な所作を気にするという癖が。

 胴体や爪先の向く方向。手指の表情。顔面のしわのより方。発汗の具合。

 注視すべき点は多いが、なかでも「目は口ほどに物を言う」というのは基本中の基本である。

 ほとんど無意識に警備係の目線を追っていたスタンリーは、そこに明瞭でないたぐいの違和感を嗅ぎ取った。ほんの一瞬ではあったが、男の黒目が左右に振れたのだ。まるで、スタンたちから目を逸らすかのような動きだった。

(これはいったい、何だ?)

 相手の真意はわからなかった。問い質すほどのことはないだろうとも感じられた。ただそれでもスタンリーは、自身の耳の奥に、なにかしら警告音のようなものを聞き取った気がしていた。

 その後、警備係の横顔に目をやりながらも、スタンとカイルはとにかく扉を潜った。奥は廊下になっていた。マットな質感の黒い壁と、同じ色をしたリノリウムの床に、彩度の高いオレンジ色の明かりが吸い込まれていくような感じだった。

 形状としてはT字路だ。真っ直ぐ突き当りの壁面には、それぞれ左右に向けられるかたちで案内板が設置されていた。離れた位置から見るかぎりでは、右に曲がればスタッフルーム、左に進めば事務所に行き着くらしいことがわかった。店のオーナーたるアレックスは大抵、事務所側の奥にいる。

「おい、カイル」

 と相棒に呼びかけつつ、スタンリーは不意に歩みを止めた。

「どうしました?」

 突然に名前を呼ばれたカイルは、スタンがそうするのに合わせて足を止めた。そうしながら彼は上司の言葉を待ったが、それ以降、両者のあいだで言葉が交わされることはなかった。

 口頭で伝える代わりに、スタンは天井の一辺を指差していた。彼の人差し指が示す先には、半球形の監視カメラが見えた。それは通路中央の天井に備え付けられた格好で、T字路のちょうど分岐の部分に設置されていた。

 スタンとしても、一見して異変に気が付いたわけではない。くだんの通路は全体的に薄暗く、カメラまで多少の距離もあったからだ。しかしよく目を凝らしてみるうちに、そこにある明らかなサインに気が付いた。カメラのレンズにあたる部分が、雑に切り取ったビニールテープで覆われていたのだ。こんな状態では機器本来の機能は果たせまい。つまり、いまこの場所で何が起こったとしても、記録は一切残らない、ということだ。

 動揺した様子のカイルの表情を認めると、スタンリーはまたも黙したまま彼自身のジャケットの懐部分、支給品の九ミリ拳銃が収まった辺りを指で差し示した。事前の打ち合わせはなかったが、スタンとしては「いつでも撃てるように用意をしておけ」という意図を込めたつもりであった。

 その後、二人は忍び足で進行を再開させた。神経が自然と昂ぶる。手の平に汗が浮かび、樹脂製の銃把を濡らす。背後の扉の向こうでは相も変わらず、大音量で音楽が流され続けている。その音が壁を通して、また床を伝って迫りくるさまは、まるで巨大な生き物の体内に置かれたかのような感覚を、スタンリーたちに味わわせた。

 だがその錯覚は、またあまりにも唐突に打ち破られることとなった。扉の向こうにあったはずの重低音が、直接にふたりを飲み込んだがゆえのことだった。ついさきほど通ってきたばかり扉が、新しくやって来た顔ぶれのために開かれたのだ。それは完全に出鱈目なタイミングだった。

 スタンは迷った。彼が振り返った視線の先には、二名の人物が立っているのが確認できた。その男たちが何者であるかなど知る由もないが、それでも、ここに居合わせたことが偶然なのか、それともこの展開こそ、スタンが自身の耳の奥に聞き取った警告音の意味するところなのか、瞬時に判断を下さなければならなかった。ただ一つ、間違いないことは、その二人連れの登場によって退路が塞がれてしまった、ということだ。

 そのうえ、この急変に拍車をかけるかのごとく前方のT字路からも別のグループが姿を表した。うち一人は、表面のささくれだった野球バットを手に下げている。充分以上に凶器となり得る物体だ。

 スタンリーは反射的に銃を抜いた。この時点ではまだ発砲を決意してはいなかったが、とにかく先手を相手方に譲ることだけは避けたかった。当然、偶然の鉢合わせというセンが頭になかったわけではない。スタンリーは天秤にかけたのだ。誤って一般人を威嚇してしまうリスクと、明白な敵意を向けてくる相手にペースを明け渡してしまうことのリスクを。前者も決してほめられたことではないが、後者が最悪なのは言うまでもない。


 柄にもなく緊張しきったスタンと背中合わせになる格好で、彼の相棒もまた、ホルスターから黒い銃身を引き抜いていた。

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