警官 四
カイルは叫んだ。
「動くな、SLPDだ! じってしていろ!」
開きっぱなしの扉からなだれ込む音に負けないよう、若き警官は懸命にのどを震わせた。
そのことは、彼のすぐ背後に立つスタンもすぐに把握することができた。両者の眉の上を、同じように汗が滴り落ちていた。
それからほんの僅かな時間。それこそ、たった一度瞬きをするていどの時間のなかで、状況は大きく動いた。
相手方は一斉に襲い掛かってきた。身分を明かして拳銃を構えた警官たちを前にして、戸惑うでも、また逃げるでもなく、くだんの男らは武器を手に駆け出したのだ。
容赦なく向けられた敵意と、それを現実に証明するかのような「やっちまえ」、あるいは「撃たせるな」というような言葉を耳にしたスタンリーは、いよいよ銃の引き金に人差し指をかけた。もはや逡巡する時間は残されていない。
直後、銃口から溢れ出した真っ白い光が、黒い壁を強烈に照らし出した。グリップを握る手から手首、手首から肩へと、順々に発砲の衝撃が伝わったかと思うと、それはまたほんの束の間にスタンの身体を通り過ぎて行った。
弾丸は敵の足に命中した。腿の辺りであるらしかった。暴漢らしき男たちのうちの一人が、バランスを崩して転倒する。男は固い床に肩から倒れこんだのち、傷を押さえたまま苦悶の声をあげ始めた。
迫る脅威のうち少なくとも一名は無力化できたのだから、それなりの効果はあったのは事実だ。とはいえ、スタンリーは喜ぶ気分にはなれなかった。たかが一人を無力化したところで、事態は好転しそうになかったからだ。
T字路からはさらに三名分の人影が押し寄せていた。威嚇では止められない三人。仲間が銃で撃たれたというのに、それを気にも留めないような奴ら。銃を見せても、警官だと知らせても、鉛弾をぶち込んでも止められない暴徒。とんだ計算違いだ。
木製のバットを手にした暴漢は、その凶器が届く範囲までスタンリーに近付くと、警官の手を目掛けて思い切りよくそれを振り下ろした。衝撃が銃を暴発させる。銃口から飛び出した弾があらぬ場所に跳ね返り、壁面にひび割れを作る。
神経が昂っていたおかげか、さほど右手は痛まなかった。しかし、床に叩き落とされ、滑っていく拳銃を目にするのは辛かった。「唯一の拠り所を失った」という現実を、スタンリーは眼前に突き付けられた思いがした。
次の瞬間、重たいバットの先端が腹にめり込むのがわかった。同時に、自身の肋骨が立てる異様な物音も聞き取った。目が回る。視界が歪む。息ができない。
(あの新入りはどうなった?)
心配しているのか。それとも役立たずだと非難したいのか。その点についてはスタンリー自身にも判断ができなかった。とにかく、どうなったのだという疑問だけが頭に浮かんだ。
床がずいとせり上がり、脂汗の滲む顔にぶつかった。スタンはそこで意識を失った。
五
次に目を覚ましたとき、スタンは自身の身に何が起きたのか、すぐには把握ができなかった。彼は完全に混乱していた。ただ、決して少なくない量の水を頭の上からぶちまけられたのは確かであるらしかった。彼はそのおかげで目が覚ますことができたのだ。
呼吸は問題なくできる。どうやら窒息で死ぬことはなさそうだ。耳もしっかり聞こえるし、鼻も問題なく機能している。だが目は見えなかった。眼前には星空のような暗闇が広がっている。
ちくちくとざらつくような感覚を頬に感じる。なるほど、頭に袋をかぶせられているのだ。おそらく麻袋だろう、とスタンリーは見当をつけた。
そのすぐ後に、スタンは人の声を聞き取った。
「どうだ、目は覚めたかこのヘボ警官」
スタンは反射的に声のした方向へと身体を向けようとしたが、しかし手足が固定されているようで、ほとんどまったく動かせなかった。身体ごと椅子に縛り付けられているのだ。彼のみじろぎに同調したパイプ椅子が、がたがたと不安げな音を立てた。
「どうした、返事ぐらいはできるだろう?」
だんだんと恐怖が首をもたげてくるのを実感しながらも、なおスタンリーは必死に思考を巡らせ、その声の主を自身の記憶中から探し出そうと努めた。しかしそうした努力の甲斐もなく、彼はついぞ特定の人物の姿を思い浮かべることができなかった。逆恨みを受けそうな相手はいくらでも思いつくのだが、例の声に聞き覚えはない。が、そのことが判明したのちも、とにかくスタンリーは意識的に脳味噌を働かせ続けた。何かを考え、推理していないと、両目を覆う暗黒のスクリーン上に、見たくもない映像が独りでに浮かび上がってくるからだ。
前後不覚の霧中のさなか、スタンは絞り出すような声で言った。
「……お前は誰だ」
とにもかくにも情報が欲しかった。
「おいおい、人に名前を訊くんなら、先に自分から名乗るのが筋ってものだろう、ええ? スタンリー・コーラーさんよ」
やはり覚えのない声だ。察するに、どこかの有名どころ、いわゆる「大物」ではないのだろう。
「じゃあ、ここはどこだ」
「さあなあ、どこだと思う?」
このとき、スタンに思い出すことのできた最前の記憶というのは、何をおいてもさきの発砲の衝撃ということに尽きた。ここ十数年ほど練習以外で銃を撃つことがなかったからか、その感触をひどく懐かしく感じたということを、彼はしかと覚えていた。
そうした久しい再開の瞬間から、いったいどれくらいの時間が経過したのだろうか。その点についてはまるで見当が付けられない。直前まで気を失っていたのだから、それも当然といえば当然である。
「カイル……もう一人の警官は――」
どうしたんだ、とスタンリーが訊ねるよりも早く、謎の人物は声を荒げてこう言った。
「尋問でもしてるつもりか、ええ? このマヌケ野郎が。自分の立場がわかってないみたいだな」
激高した、というよりかは、わざと騒がしくして場を盛り上げようとしているかのような雰囲気があった。
「しかしまあ、いまの質問はいいぞ。ああ、いい質問だ。ご褒美に、カイル・ブランフォード氏の近況について教えてやろう」
男はそこでいったん口を閉ざすと、続けざま、何やら布がこすれ合うふうの音を立て始めた。懐から何かを取り出しているような調子である。
「……ああ俺だ……ああ……そう、始めてくれ。いまだ」
声の位置が遠い。どこかに電話をかけているのだろう。
それからまたやや間を置いたあと、男はようやくスタンの前に戻ってきた。
「さあスタン、耳をすましてよく聞きな」
その言葉に引き続き、いくぶんか機械的なノイズ交じりの物音が、スタンの耳に届き始めた。通話がスピーカーに切り替えられたのだ。音がこもって聞こえるような気もするが、それは頭にかぶせられた麻袋のせいかもしれなかった。
――待ってくれ、俺は警官だ、本当に警官なんだ――
それは明らかに、怯えた人間の叫び声だった。コンビを組んでからまだ日が浅く、また差し迫った状況に居合わせたこともないため、はっきりと断定することはできなかったが、「もしもあの新入りが喚いたならこういう声になるか」と、スタンリーには察しがついた。
――違う、誤解なんだ、俺たちはケイン・マルドネスに言われて――
文章が不自然な位置で途切れる。入れ替わりに、何かが強くぶつかるような音と、ごく短い悲鳴とが鼓膜を叩いた。ぐっしょりと痛みに塗れた叫びだった。
――頼む、もうやめてくれ、お願いだ……頼む!――
そこで再び、ある種の衝撃音が呻きを遮った。強烈に肉を叩く音。何度も、何度も、暗中の向こう側で異音が反響する。
ただ、今度は悲鳴は聞こえなかった。禍々しい異音が幾度も繰り返されてのちには、か細い声が続くのみだった。
――違う……俺は、警官だ――
声が掠れている。意思や思考といった機能が、その効力を失い始めていた。この憐れな虜囚が口にしているのは、もはやただのうわ言に過ぎない。
スタンは己が心中から、抗いようのない恐怖が湧き上がってくるのを自覚した。ついで、肺が圧迫されるような感覚を覚えた。
あいつはどうなった。あの新入りは何をされた。もし殴られたのであれば、素手か、それとも鈍器でも使われたのか。指の一本でも折られたか。でなければ、叩き折られたのは足のほうか。いったいどんな道具を使って――。
いまこの瞬間、カイルの心身を引き裂きつつあるその凶事が、これからスタンを襲うであろうことは想像に難くない。瞬間、無数の暴力的なイメージが、脳裏で内側でのたうち回った。
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