第五回
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思い出について。
20年近く生きて来た一大学生にとって、思い出と一口に言ってもそれは極めて膨大だ。しかし、この古川の場合はいつも高校時代を、就中、片山葉子という一少女との思い出を意味していた。
彼が彼女を知ったのは、ちょうど彼が高校一年生になった時であった。それ以来、つい先日完全且つ不可逆的な拒絶のメールを受け取るまで、彼は彼女との未来を信じて疑わず、又、今でも彼女を好きだ。しかし、これは決して美しい感情ではなく、言わば呪いのように彼を内側から破壊し、腐乱させ、自己の閉鎖的な精神世界へと退却させ、遂に人をも身をも恨ませるに至らしめた癌なのである。片山葉子は、常に彼の不気味さに困惑していた。嗚呼、何たる不可能! 彼が彼である故に、彼女はこれを否定するより他に無いのだ!
思い出は、卒業から半年を経てもなお彼の精神を捕縛し続けた。思い出の重圧に負け、彼は最早堕落するより他に無かった。果てしない追憶と悔恨とに堪えかねた彼は、或る時彼女にメールを送った。そして、会いたいと伝えた。これによって彼は過去から脱却出来ると信じた。たとい拒絶されるとも、それで答えが出るのならもう彼女から飛び立つことが出来るのだから。果たして彼は拒絶された。答えは出たが、残ったのは絶望だけであった。
一方中村は、恋愛そのものを否定した。彼はどんな女性に対しても疑いの目で彼女を見、情熱を巧みに圧殺した。恋をすることは即ち破滅を意味した。若しも彼女を愛すれば、彼は必ず彼女を不快にさせ、自らも絶望するより他に無いと知っていたからである。しかし、思い出は何度でも彼を在りし日々へと連れ戻し、青春の幻影を呼び戻した。
「お疲れ。」と優しい声。
中村は驚いて顧みた。
彼女の方から声をかけてくれたことが、この上なく嬉しかった。
「お疲れ。」と彼は答えた。
「今日も暑かったね。」と言った彼女の声は親しげだが、彼を異性とは見ていない。
「うん。」と彼は頷く。
夏の暑い日の夕方であった。高校三年生の夏休みが、もうすぐ始まろうとしていた。彼女は明るい笑顔が素敵な人だった。あらゆる女性が中村を不気味な道化として軽蔑し、忌避する中、隣を歩いている角川美奈だけは極めて自然に、まるで彼が普通の男の子ででもあるかのように接してくれたので、彼はこのことに心から癒された。
「受験勉強なんてもう嫌にならない?」と彼は聞いた。
「うん。毎日が同じようで気が遠くなるわよね。」
彼女が彼に声をかけたのは駅のすぐ近くのコンビニの前であったので、彼らはすぐに駅に着いてしまった。そして、二人の帰り道は全くの逆方向であり、彼らは互いに反対側のホームに行った。見ると、向かいのホームには彼女がいた。照れ臭かったので、彼は気付かなかったふりをして通り過ぎようとしたが、すぐにとても耐えられなくなって咄嗟に手を振った。彼女は応えてくれた。これほどの感動を得たのは、この日を最期に二度とは無かった。
気が付くと、彼は布団に寝転んでいた。そうか、俺はもうあの世界にはいないんだ、と彼は我に返り、現実に舞い戻った。生暖かい風が、カーテンを揺らした。
つづく
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