第三回
3
帰り道、中村恵三はすっかり放心状態であった。日本文化を復興する為の第一歩としてこのサークルを作ろうとしていた彼は、その最初の話し合いでこれを低俗な交流サークルへと堕落させてしまい、のみならず、サークルの主導権まで滝川たちに奪われてしまったからだ。それに、彼は彼の信念が抽象的な感情論に頼った不安定で到底賛同を得られない空想であったことを知り、大いに赤面した。彼は、計画を中止しようと思った。この「日本文化護持」という名は、その崇高な理念を理解しない者たちには決して渡してはならないと強く誓った。まだ早過ぎたのだ、この名前を使うには。
「おい、やっぱりこのサークルはやめよう。」と彼は言った。
「え? まだ出来たばかりだろ。」と宇野。滝川は女子との会話に夢中だ。
「ああ。でも、気が変わったんだ。」と中村は答えた。最早友人たちと顔を合わせることすら嫌悪し、彼は斜め上の方をじっと睨んでいる。
「何だよ? 勝手にそんなこと決めるなよ。皆結構楽しそうだったじゃないか。」
「まあ、それはそうだが―」
やはりこれはあまりに唐突過ぎたと、彼は反省した。そして、一旦妥協し、後からこのサークルを脱退することに決めた。その際、あの名前だけは決して渡したくなかったので、せめてその前に名前を変えさせようと思った。
「まあ、待て。何も白紙にする訳じゃない。要するに、名前が少し良くないから、変えようと言っているのだ。」と彼は言った。
「名前? それで、どう変えるんだい?」
「全日本快楽同盟とか。」
「おう、それ良いな。カッコ良いな。」
「あ、そう。じゃあ、早速そうしよう。ついでに、部長はあいつにやらせれば良いさ。」と、彼は前を歩く滝川を指差した。
「滝川か?」
「うん、」と彼は頷いたが、宇野は怪訝な顔をする。
「おい、中村。どうしたんだよ、お前、さっきからやたらと突き放すじゃないか。」
「別に。」
「怒ってんのか?」
「知らねえよ。」
駅に着いた。中村も本当はここで乗るが、今日はやめることにした。親戚の家に行くと言って別の駅に向かい、彼らと別れた。別れ際、サークル名の変更を厳命した。
彼は、この半年間で自らの作り上げたものがこうも呆気なく滅び去ったことに、最早言葉も無かった。日本文化の復興という使命を自覚して以来、宇野を始めとした部員になってくれそうな人材を集め、サークルの規約を作成し、サークル名や入部条件を考案し、やっと参加者との顔合わせに懇親会を開くに至ったのだ。而るに、結果は彼の密かに恐れていた通りになった。やはり、情熱の無い者に使命は果たせないのだ。これには日本文化への深い愛と部員全員の強い連帯とが必要であったのだ。帰り道は黙って歩いた。顧みれば、全ては事実を歪曲し、自分勝手に都合良く解釈した結果なのかも知れなかった。彼は、結局のところ自分が他人と根本的に隔絶しているという宿命的孤独を感じた。こんな気分になったのは、高校以来だった。
暫く行くと、前方から古めかしいランドナーに乗った青年が来るのが見えた。それは、高校時代の同級生の古川真澄に似ていた。彼は、はっとしてそのランドナーの男を見た。
彼もそうであった。そして、自転車を停めた。
「古川。」と彼は呼んだ。
「中村か。」
「うん。久しぶりだね。」
「ああ。」
この破滅的な二人が偶然にも出会ったことは奇跡的であった。中村はこれを心から喜んだ。古川は唯驚いているだけであった。しかし、久しぶりに人間と話せると思うと、それも良いかも知れないと思った。
太陽はもう沈んだ。彼らは、中村が行く駅までの道を共に歩いた。
「大学はどうだい?」と中村は聞いた。
「ろくでもないさ。そっちはどう?」
「頑張って活動しようとしたんだが、駄目だ。やはり俺は、所詮は唯のぼんくらなのかも知れん。」
「でも、行動しただけ偉いじゃないか。」
暫く沈黙。中村は、この古川との出会いを無駄にしたくはなかった。そこで、是非今度会ってゆっくりと語り合いたく思った。
「あのさ、古川。今度遊びに行かないか?」
この中村の提案に、古川は唯驚いた。そして、嬉しくもあった。しかし、はっきり行くと言う勇気は無かったので、何となく曖昧に頷いておいた。これが卑怯であり、無責任なことであることは理解していたが、どうにもならなかった。これは精神に深く根ざした、言わば彼の宿命的な弱さなのだ。
「駅だ。」と彼は言った。中村も頷く。
「うん、着いたね。じゃあ、僕はここで乗るよ。会えて良かった。」
「ああ、俺もだ。」
二人は手を振った。階段を降りて行く中村を見送ると、古川は自転車を走らせた。何となく照れ臭かった。自分もやはり彼と会えたことを喜んでいるのかしら、と彼は自問した。
つづく
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