第二回

2

 活動という言葉に見放された古川は、毎日を布団の上に寝転がって過ごしていた。彼はミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を音読しながら、いつしか眠りに落ちた。

 彼は或る夢を見た。でも、内容は覚えていない。電車に乗って遠くへ行く夢であったように思う。でも、駄目だ。思い出そうとすればするほど、それは遠退いて行った。彼は諦めて起き上がろうとした。すると、手足が痺れて重かった。窓が開いていた為に長時間風に晒されたろうから、そのせいかしらと彼は思った。何とか立ち上がると、今度は頭がくらくらして何度か倒れそうになった。

椅子に座って机に肘を突くと、彼は自分の手の平を見つめて溜息をついた。そして、再び本の音読を始めた。


「日本文化は、今将に破壊されようとしている。」と中村は言った。女子二人と、彼の友人の滝川と宇野とが、にやにやしながらそれを聞く。

「いや、既に多くが失われてしまった。川端康成や三島由紀夫も、戦後に失望していた。GHQは確かに人民の権利を拡張したかも知れない。しかし、一国の文化までも破壊する権利は無かった筈だ。我々は、それぞれが誇り高き日本人としてこの問題に真摯に向き合い、失われつつある文化を守り、又、既に失われた文化を取り戻す為に死力を尽くさなければならない。それが、このサークルの目的であり、使命なのだ。」

 一同はとりあえず頷いた。しかし、

「よく分かんない。何か空想的で決め手に欠けるわ。」と女子。

「文化とか、どうでも良くね。てか、日本文化って何? 抽象的過ぎるだろ。文化なんてものは時代によって変わるものであって固定化して存在するものはどこにも無い筈だぞ。」と滝川。

「ま、難しいこと考えても絶望するだけだろうし、楽しければ良いでしょ。」と宇野。

 このように一同彼の真意を解しなかった。瞬間、彼は自らの夢の潰えたことを悟った。そして、結局は彼らに迎合せざるを得なかった。

「まあ、そういう建前ではあるが、楽しければ何でも良いんだよ。ボードゲームでもやろうか。ハハハ。」

 絶望。


 本の音読に飽きると、古川は力無く立ち上がり、今度はパソコンでコンピューター将棋を始めた。嗚呼、こんな生活に一体何の価値があろうか、と彼は思って自分が堪らなく嫌になった。将棋に負けると、彼は堕落した毎日と訣別する為、中国語検定の勉強を始めたが、やがて30分で眠気が襲った。

 そして、寝た。


 堕落! この言葉を聞く度に、彼は無性に嫌な気分になる。嗚呼、堕落とはまさに人生の敵である! しかし、恋人も友達もサークルもバイトも無い、徹底された孤独を生きる古川にとって堕落は唯一の道であった。勉強? そんなものをいくらやったところで、誰も評価してはくれなかった。それに、彼は学力で困ってはいなかった。だから、受験生でもないのに毎日を勉強で埋め尽くすことには同意出来なかった。では、ゲームはどうか。無論、この考えは幾度と浮かんだ。しかし、とうとうゲーム機に電源を入れることはなかった。これだけはあまりに露骨に堕落の意志を示すようで、どうにも実行出来なかったのだ。では、何をしたか。ひたすらぼうっとしてパソコンを見たり、本を音読してはっきりと喋る練習をしたり、インコに餌をやったり、テレビで午後のロードショーを見たりした。どれも理知や芸術とはかけ離れており、又、彼の心を重くした。

 しかし、彼はいつしか自分がこの生活に快感を覚えるようになったことに気が付き、驚愕とした。つまり、彼が現実世界に失望し、このような破滅的な生活を送ることで自ら廃人となって行くことは、一方で彼に対してあまりに残忍であった社会へのささやかな復讐でもあったのだ。彼は、このことに気付いて以来堕落を楽しんだ。無関心で高慢な社会が、或るいは氷のように冷酷な少女の彼への軽蔑の眼差しが、彼という一青年を圧殺することには不思議な魅力があった。しかし、それでもやはり、このままいつまでも堕落してはいられないことを彼は知っていた。

 彼は服を着替え、叔父から貰った40年前のランドナーに乗ってこの楽園を後にした。


つづく

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