第237話


 劣勢の黒と優勢な白。

 数分間、灰はテンジの猛攻撃を紙一重で回避し続けていた。


「はぁぁぁぁぁぁあッ!」


「ヒヒッ!! 速ぇ、速ぇ、速ぇなぁぁぁぁぁぁ」


 鬼々迫る表情で、テンジの白い鬼卒刀が鋭く振るわれる。


 白い業炎の空間を焼き切る音が、いともたやすく灰の右腕を斬っていた。黒い右腕が軽く宙を舞うと、数メートル先の地面に虚しく落ちていく。


 そして――その右腕は暗くなり始めた世界の闇に溶けて消えていく。ただ赤い血にまみれた本物の右腕は残らなかった。


 そう、そこには何も残らなかったのだ。


(まだ本体を斬れないのか!? いや、僕の攻撃は少なからず通っているはずだ。このまま続ければいつかは――)


 回避した灰は少しばかり苦悶の表情を浮かべていた。

 攻撃など一度も受けた覚えはないのに、気がつけば灰の体中には焦げ跡のようなダメージの蓄積がのしかかっていたのだ。


 いつ、どこで、何が発端でこうなったのかわからない。


 一つだけわかるのは、テンジの姿が鬼へと変わったあたりから全身に焼け跡がつき始めたことだけ。


「死ねよぉ! 普通に戦おうぜぇ?」


 次の瞬間、灰はテンジの真後ろで殺気を振りまいていた。そして心臓を一突きで貫こうと、闇の糸を束ねていく。


 これは灰の能力の一つ。


 鵜飼灰の天職【陰々者】には、テンジの地獄領域と似たような――陰世――という異界が備わっている。その陰世を今の灰は自由に行き来することができる。そして陰世で一定のアクションを起こすと、現世で灰の体が本当に移動しているのだ。


 昔の灰にはできない芸当だった。


 ただ代償を乗り越え、より闇と同化した鵜飼灰には容易いな芸当になっていた。


「――【斬鬼・八廻】ッ」


「ちッ、またかぁぁぁぁ」


 目で追えない奇襲に対し、テンジは全身から白い炎の嵐を放出する。そうして強制的に灰の背後攻撃に対処していた。


 今の灰には、防御よりも反撃の方が効く。


「素直だなぁ、まだまだひよこだぁ! 殺し慣れてねぇなぁ! 雑ダァ、もっと精度上げろよぉ!!」


「人を殺したことなんてあるわけないじゃないか。でも、僕の炎は確実にあなたの体を蝕んでいるはずだ。だんだん動きが鈍くなってるよ?」


「ちッ。なんだぁこの炎。変だなぁ。全部かわしたはずなんだがなぁ。いつからこうなったぁ」


 舌打ちをした灰の頬には、白い業火がちりちりと燻っていた。今は平然と振舞っているが、実際には全身に相当な苦痛が伴っていることだろう。


 地獄の業火にはいくつかの種類がある。


 基本の業火は酒呑童子が好んで使っていた――必要以上の苦痛を与える炎。

 そして今のテンジが扱うのは――罪を焼き尽くす炎だ。


 後者の業火は特殊で、対象の人物の罪に応じて苦痛の種類と強度が変化する。その中でも一番特別なのが、効果範囲の生物全てに適用されるということだ。


 半分鬼と化したテンジに許されたもう一つの業火だ。


 それも範囲内では必中で、回避することは敵わない。


 鵜飼灰はブラック探索師として、様々な悪事に手を染めてきた。ゆえに――彼の全身には絶え間なく複数の苦痛が襲っているはずだ。


 腹痛から始まり、激しい頭痛に、肺を弄られているような熱い痛み、瞳をほじくり出されているような痛みに、その他複数の痛みが襲っている。


(動きは確実に鈍っている。あとは時間が解決してくれるはずなんだけど……)


 ふと、テンジは夜に包まれ始めた空を仰ぎ見る。


 鵜飼灰の天職の根本は闇だ。

 世界の闇が深くなればなるほど、闇の能力は強化されていくだろう。


 これは天職の常識だ。

 テンジだって現世で力を振るうよりも、地獄で力を振るう方がずっと戦いやすい。魚には水場という戦場があるように、天職にも即した戦場があるのだ。


 それともう一つだけテンジにはできないことがあった。


(僕にもっと覚悟があれば――)


 力の一部を開放したテンジが苦戦してる理由の一つに、覚悟の不足があった。


 なんの覚悟が足りないのか。


 それは単純なこと――人を殺す、または人を意図して傷づける覚悟だ。


 もし鵜飼灰がモンスターならば、すでに彼の命は尽きていることだろう。それほど今のテンジは別格だ。


 モンスター相手ならば力をいちいち制限する必要もなく、一つの躊躇もなく最大の業火を浴びせることができる。そして一瞬で焼き尽くされることだろう。


 だけど、人は違う。


 罪を償う機会を与えるのが、今の世界のルールだ。

 どんな悪人だって今の時代そうそう死刑にはならない。償いの機会は平等に与えられるべきなのだ。


(いや、深く考えるな。どうやって鵜飼灰を無力化するのか、その方法だけを考えるんだ)


 自分を叱責するように、テンジは頭を二度振る。


「何を考えているぅ、殺し合いの最中に! 殺しだぞぉ! 一緒に死のうぜぇぇぇ!」


 テンジの心の隙をつくように、細かな体のフェイントを入れながら接近してくる。そして――細長く最大まで伸び切った闇の矛でテンジ目掛けて振りかぶる。


 まさにそのときであった。


「――【鏡湖領域】」


 すぅっと。


 テンジたちの足元に、美しい水溜まりが異常な速度で広がっていった。


 それは空を鏡のように映し出すように、見惚れてしまうほどに透き通っていた。あの有名なウユニ塩湖に来たと錯覚するような幻想的な光景だった。


 突然の湖の透き通った水域に、反応の遅れた灰は一瞬だけ足を水に漬けてしまった。逃げ遅れたのだ。


 次の瞬間だった。


 灰は急に地面に片膝をついていた。そして「うっなんだぁ」と不思議がるようにテンジの背後に現れた人物の顔を見上げた。



「すまん、遅れた」



 その聞き覚えのある頼もしい声に、テンジは少しだけ口角を上げていた。


 まるでヒーローだと思った。

 友達が苦戦しているときに駆けつけてくれる頼もしさ、そしてすでにテンジの天職を知っているからこそ気兼ねなく出し惜しみしなくていい応援。


 ただ、ちょっとだけ傍観していた時間があったことはいただけなかった。


「遅すぎない?」


 少しだけからかう様に言う。

 その言葉に対して特に何かを言うでもなく、彼――水江勝成――はテンジの隣に立つ。


 入団試験の時よりも、ずっと実践慣れした殺気を水江は身にまとっていた。


 全てが洗練されていた。

 歩く歩幅に、常時周囲を警戒するアンテナの範囲、戦場のどこを最初に確認するか、敵のどこを警戒しているのか――全てが静かに燃えたぎっていた。


 ゆっくりと敵の動揺した表情を見る。


「厄介そうだな」


「だね。正直困ってた、相性悪くて」


 その言葉が聞きたかったのか、それとも先輩面をしたかったのか。水江はいつも通りの冷静でぶっきらぼうな表情をしながら、腰に携えていた二本の武器を手に取って戦闘態勢をとった。


「安心しろ。あいつはすでに――俺の術中だ」


 その言葉に反応するように、辛そうに顔をゆがめていた灰が立ち上がった。月に鬱憤を晴らすように、「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ」と雄たけびを上げる。


「なんなんだよぉ、てめぇはよぉぉぉ! 能力これを解けぇぇぇぇぇぇ、戦いづらいじゃねぇかよぉぉぉぉ!!」


 一歩進むだけでも、立ち上がるだけでも、灰は本当に苦しそうな顔をしていた。テンジの業火と相まって、今の灰には相当な負担がかかっているようだ。


 そんな中、隣に立つ水江にテンジは小さい声で尋ねる。


「本当になにしたの? あれほど怒ったのを見るのは初めてなんだけど」


「そういえば言ってなかったな。俺が目覚めた天職は――弱体型だ。少し特殊な部類だがな」


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