第235話



 眩く輝く――白い業の募った炎。

 それが宵の口に近づいた一帯の暗がりを一気に明るく染めた。


「ヒヒッ……それはやばいなァ。まともに受けたら死ぬなァ」


 あまりの高濃度の炎に思わず、そんな弱音を漏らす灰。

 そんな彼は何かが面白かったのか片側の口角だけを異様に上げていた。そのまま癖のように指をぽきぽきと鳴らすと、腕に持っていた流動的だった剣を体の中にしまい込む。


 にやりと不気味な笑みを浮かべる。


「【玄繭】だァ」


 ドロッ、と灰の足元の影が黒い水へと変わった。

 それが球体を描くように灰の周囲を下から覆っていく。まるで磁力の纏ったスライムのように徐々にそれは上半身へと動いた。


「これで俺ぁ死な…………は?」


「――【斬鬼】」


 ほんの一瞬、視界が真っ白に染まるほどの炎が鬼卒刀から発せられる。

 瞬間火力を増大させ、その反動を利用した単純な移動方法だった。


 気がつけば、テンジは灰の目と鼻の先で刀を振りかぶっていた。


 声すら出せずに、灰は口をあんぐりと開けている。


 瞬きすらしていない。

 していないはずなのに、次の瞬間にはそこにいたのだ。


 そして――鬼卒刀が振り下ろされる。


 灰の絶対防御が完成するよりも先に、切っ先が肩口に到達していた。


 びしゃりと液体が飛び散った。

 その色は赤ではなく、黒い液体だった。


「なるほどね、ようやくわかった」


 まったく手ごたえを感じなかったテンジは冷静にそう呟くと、綺麗にその場に着地しすぐに背後へと振り返った。斬った拍子に鬼卒刀にまとわりつき、気味悪く蠢く黒い水を鋭く振り切る。


 そうして――そう遠くない場所で不気味な笑みを浮かべる灰を見る。


 また瞬間移動に似た何かの能力を使用していた。

 厄介な能力だ。


 だけど――。


(ようやくわかった。対処する方法はある)


 おそらく一年前のテンジには今の灰を倒せなかったかもしれない。

 それくらいあの能力は厄介極まりないものだった。


 それでも今のテンジにはそう難しいことでもなかった。


「ヒヒッ! 二手、三手先の保険を掛けておくのは当たり前ぇだろうがぁよぉ。それにハッタリは得意だぁ。俺がぁあんな鈍間な防御に頼ると思ったかァ?」


「昔よりずっと力の使い方がうまくなっている。昔の灰さんはもっと不器用だった」


「だから誰だぁ」


「今の灰さんは僕と同類だ」


「…………あぁ、そうだなァ。そういうことかァ」


 二人の間に僅かな沈黙が続く。


 薄々は気がついていた。

 鵜飼灰は五年前に「代償」を使用して死に――ただの肉塊へと変貌したはずだった。


 だけどテンジは知っている。


 代償を完全に乗り越えた先に待つものを。

 自分がそうだったから。よく知っている。


 たぶん鵜飼灰は一度闇に飲み込まれ、より闇と同化している。


 テンジも同じだ。


 代償を一度ならず二度も経験した、そして克服した。


 その結果テンジの体は「人間」というよりも「鬼」に近い存在になっていた。

 角が完全に無くならないのも、食欲に歯止めが利かなくなり始めたのも、炎の扱いがうまくなったのも――すべてはテンジの存在自体が鬼に同化を始めているからだ。


 そう、より地獄の世界にその体を馴染ませ始めていた。


「ここから遠慮はしないよ。普通にやってもその能力を破ることはできないから」


 ぼわっ、と。


 テンジは鬼卒刀の刀身に宿る白い炎を見境なしに辺り一帯へと放出する。

 円状に広がっていく炎とその熱波は、何もかもを炭化させていく災害と化した。


 守られていないすべてを焼き尽くす。


 木々はもちろん、隠されていたカメラやドローンなどすべてを破壊していく。そうしてテンジを監視するすべての物はこの場から消えた。気兼ねなく自由な戦いができる。


 そう、いつも通りの戦いだ。


「ヒヒッ……玄乃人これを着てなかったらやばかったなァこれ。皮膚なんて焼け落ちて爛れ、喉は焼けて声なんて出せないだろうなァ。楽しいなぁ、怖いなぁ、苦しいなぁ」


 闇の衣服さえも貫通して感じるおどろおどろしい暑さに、灰は笑う。

 今このときでさえテンジの喉を切り裂きたいし、首を喰い千切りたいし、心臓を生手で触りたいし、死をもてあそびたいと思っている。殺したい衝動は止まない。


 それなのに、この暑い炎がそうさせてくれない。


 ここから一歩前進するだけでも相当なダメージが入ることがわかる。

 今でさえ気を抜けば一瞬で焦がされそうなのに、これ以上近づけるわけがなかった。


 ただ、じっと。

 この熱波が止むことを座してみることしかできなかった。いや、灰は瞳をきらきらと輝かせながらテンジに見入っていた。


 この場で最も熱い場所に平然といる少年、それが不思議でならなかったのだ。


 その無法な炎に最も焼かれていたのは、テンジ本人だった。

 鬼卒刀から絶え間なくあふれ出る白い炎はテンジの皮膚を焦がし、部分的に筋肉の束を露わにしている。片側の頬はすでに焼け落ち、白い歯がはっきりと見える。暑さで喉は焼け焦げ声すら出すのは難しいだろう。


 それなのにテンジは平然と立ち上がっていた。


 何事もないかのように自然とそこにいるのだ。


 痛みを感じないのだろうか。

 そう聞きたくなるほどの状態だった。


「やっぱりかぁ、お前ぇも人間辞めてたなァァァ」


 喉が焦げているからだろうか。

 普段の優しい声よりもずっとがらがらな言葉で、テンジは言った。



「【番鬼人】――発動」



 閻魔の書、獄命召喚、そして第三の天職固有能力――【番鬼人】。


 それは人間を捨てる地獄の力。


 半身を完全に地獄へと預け、鬼へと化す能力。

 半鬼になることを強制するトリガーの呪言。


「ぐッ……」


 少し、苦しむようにテンジは額を抑える。


 それから間もなくのことだった。


 鬼の角が一本、頭部からゆっくりと生えていく。まっすぐ伸びることはなく、ほんのわずかに螺旋を描くように曲線を描く。

 それと呼応するように、髪の毛は徐々に伸びていき肩を優に超えていく。爪は鋭く伸びていき、鳥類にも負けない鋭利なものへと変わる。


 片目を痛そうに抑えていたテンジはゆっくりと顔を上げると、その片側の瞳はモンスターのそれとよく似た色を持つ瞳へと変わっていた。


 紛れもなくその姿は――人ではなかった。


 内で暴れ狂う怒りの感情と拷問の衝動をなんとか抑え込みながら、テンジは空を切るように刀を振るった。すぅっと先ほどまでの熱が嘘だったかのような静けさが辺りを包む。

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