第185話



 あの時と同じだ。


 ただそこにいるだけで、人間の根幹にある生存本能がここから逃げるように警告を鳴らしてくる。死を錯覚させるほどの嫌な圧力が止め処なく押し寄せてくる。

 自分の意に反して、反射的に体が逃げようと動き出してしまいそうだ。


 ダメだ、ダメだ、ダメだ。


 死ぬわけにはいかない。

 逃げるわけにもいかない。


 このまま座して何もしないわけにはいかないんだ。


 何のために私はここまで這い上がってきたのだ。

 兄を、妹を――ダンジョンで行方不明になった二人を探すためだろ。


 こんなところで何もせずに死んでいては、私は今後ずっと二人をを探すことなんてできなくなってしまう。自分に失望して、遠い夢になってしまう。


 弱い自分は――もういらないと決めたはずだ。


 昔の臆病で、泣き虫で、他人の顔色を伺うような弱い自分とは決別したはずだ。


 今の私は、九条霧英だ。


 日本を、世界を代表する、立派なプロの探索師だ。


 チャリオットの団長、九条霧英だ。


 プロの私が弱いなんてあってはならない。

 誰よりも強く、優しく、憧れられる英雄ヒーローでなければならないのだ。




 私が憧れた探索師は、もっとヒーローだった。


 もっとカッコよかった。


 もっと強かった。


 絶対に逃げ出さなかった。




「ふざけるなアァァァァァァァッッッッ!!」


 空で優雅に浮かびこちらを見下ろしてくる敵に対し、九条は魂を震わせて叫んだ。

 その魂の叫びには、彼女が持つ第二の固有アビリティ『誘惑言霊フォースデビル』が無意識に混ざり込んでいた。


 それが――、

 三人を硬直から、彼女自身を死の硬直から解き放った。




 その叫びが、奴の敵意に触れてしまった。




 あの時と同じだ、気が付けば目の前にいた。

 いや、それは少し違うかもしれない。九条の見ている世界よりも、奴はさらに速い速度で動いているに過ぎない。九条のレベルでは奴の動き一つ捉えることができなかったのだ。

 それが今の九条と、白きモンスターとの純粋な力の差。普通ならば敵うはずもない。


 普通の探索師ならば、だ。


「それはもう見た」


 九条霧英という傑物に同じ攻撃は二度も通じない。

 それが彼女の戒めであり、自分に課した一つの強制制約だった。


「――『禁動せよ』ッ」


 声に言葉が乗り、言葉に言霊が乗った。

 それが九条の天職能力の補助を得て、周囲の空間に伝播していく。そして奴の体にそれが流れ込んでいった。


 ぴたり、と。


 奴の動きが止まった。


 まるで仏像にでも変わったかのように、眼球ひとつ動かせなくなっていた。

 自分の体なのに自分の体ではなくなったような、初めての感覚に襲われたモンスターは、訳のわからない能力に動揺の色を見せた。


 これは九条霧英が九条霧英たらしめる十八番の能力。


 潜在的に覚醒した超強力な第二の固有アビリティ『誘惑言霊フォースデビル』は、触れた相手に対し強制的な行動権を行使する。ただし、そこにはという枕詞が付く。

 そんなデメリットを掻き消したのが、彼女が保有する一等級天職《波動魔法師》だった。これに付随するスキルにより、その言霊を触れながらではなく、空気伝播によって行使することができるようになった。デメリットをメリットへと昇華させたのだ。


 これが九条の十八番――、

 言葉だけで『敵に一時的な行動を強制する』能力だった。


 それでも圧倒的格上相手では、ほんの一コンマ数秒の時間を稼ぐのが精いっぱい。


 だが、それで十分。

 これが彼女の賭け要素満載の勝機であった。


 九条が奴の動きを阻害し、有効な攻撃手段を有するテンジが攻撃する。

 そして一緒に連れてきた炎と冬喜と千郷がそれを全面的にカバーする。たったこれだけのコンビネーションで全国民が避難するだけの時間、その何分の一かを稼ごうと考えていたのだ。


 倒そうなんて微塵も考えていない。


 あのリィメイで無理だったのならば、私たちは逃げるしか方法はない。

 だったら、私たちの役目は時間を稼ぐこと。全国民が避難するだけの何分の一かの時間をたった五人でカバーできるならば、役割は果たしたも同然。


 そう、何分の一かの時間を稼ぐだけでいい。


 あとは他の探索師がどうにかしてくれるのだから。

 ここに集められたのは、そういう優れた探索師だけなのだ。


「あとは任せるぞ、天城典二」


 ふっと、九条は自然な動作で後方へとバックステップを踏んだ。

 そんな九条の脇の傍を、赤き炎刀を持った少年が鬼の形相で走り抜けていく。


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