第141話



「老いと……死ぬことがない? ……えっと、人間がですか?」


「その人間が、だよ。私はどれだけ足掻いても死ぬことができないやん。もちろん老いることもない。……ちょっと見てて」


 久志羅先生はそう言うと、デスクの傍に置いてあった一本の高価そうなボールペンを手に取った。プラスチック製ではない、かなり重量のある高価なやつだ。

 久志羅は一切の躊躇を見せずに、腕をテンジへと見せるように前に突き出し、ペン先を手首の内側に触れさせた。


 凄く嫌な予感がした。

 テンジは慌てて止めるようと手を動かすが、すぐに背後に立っていた千郷が両肩を力づくで押さえ、小さな声で「そのまま目を離さないで」と言ってきた。

 否応にもテンジの緊張感は高まっていき、全身から嫌な汗が湧き出てくる。


 そして――。

 久志羅はペン先をカチャリと中から出し、自分の静動脈目掛けて思いっきり突き刺した。

 ピシャリ、と血が辺りに飛び散った。


「相変わらず痛いなぁ」


 当たり前のように久志羅は言い、すぐにペンを自分の腕から引き抜いていく。

 すでに血管からは勢いよく鮮血が噴出しており、近くの床やパソコン、照明などに散らかっていく。僅かにだが、テンジの頬にも赤い血が飛び散っていた。

 それでも久志羅先生はただ小さな声で「痛いなぁ」と言うだけで、沈黙してはならないはずのこの状況をただ静観していた。


 そして、タイミングを見測ったようにテンジへと言った。


「もう来るよ」


 ――何が?

 そんな問いを掛ける前に、それは突然起こった。


 床に零れ落ちた多量の血が、パソコンに飛び散った鮮血が、深く穴の開いた傷口が、テンジの頬に付着した新鮮な血が――まるで時を遡っていくかのように、久志羅先生の体へと戻っていき、手首の中へと帰っていく。それが終わると傷口はすぐに閉ざされていき、最後には今の行いなど無かったかのように、健全な久志羅の姿が目の前にあった。


 テンジは言葉を失っていた。

 ただの治癒能力なんかでは言い表せない、それこそ神がそこにいたのではないかと錯覚するほどの「何か」の現象に、現実が少し遠のいていた。


 例え治癒系一等級天職を持つ探索師でも、『時間を遡って治す』なんて能力を行使できる人はいない。それこそかの有名な治癒系統の零等級天職を持つ彼女でさえ、時間を逆行させるなんて不可能だ。

 あくまで治癒に関する能力は、MP原子を媒介として新たに組織や細胞を作り出して治すのだと言われている。要するに、人の自然治癒力を強制的に活性化させるような効果を示すのだ。


 だが、MP原子を時間という概念に作用させる効果があるとは聞いたことがない。

 実際に、協会のデータベースにさえ、そんな論文は掲載されていない。


 テンジは口をぽかんと開けたまま、動かなくなっていた。

 そんなテンジの動揺は何度も見てきた久志羅は、説明するように言葉を再び紡いでいく。


「私の天職はね、弱体型に分類される一等級の《呪黒魔法師》やん。知ってる?」


「い、いえ……」


「私を含めて世界に三人いるんだけどね、普段は本当に何気ない能力しか使えないやん。モンスターの体重を重くしたり、視界を暗転させたり、三半規管を弱くさせたりね」


「よく聞く弱体型の特徴ですね」


「そう、別にどこにでもある普通の弱体型天職なんだよ。ただ一つ違うのが……弱体型にしては珍しい一等級天職に分類されているってことやん」


「確かに、一等級の弱体型の話はあまり聞いたことないですね」


 テンジがしっかりと探索師としての知識を覚えていることに久志羅は感心しつつ、次にどう説明していこうかと僅かに間を置いた。

 持っていたペンを手の中でくるりと何度か回し、再び久志羅は口を開いた。


「と、そこでさっき言った『代償』の話が関わってくるのね。代償とはその名の通り『何か』を代償にすることで、天職の制限を取り払った能力を一時的に行使する行為のことやん。一部ではオーバーリミットなんて安易な呼び方をする奴もいるけどね。でも、そんな生易しいものじゃないの。もっと黒くて、重くて……触れてはならないものなの」


「久志羅先生のその体は……もしかして……」


「言いたいことはわかるやん。たぶんテンジくんの考えであってるよ」


 テンジは初めて聞かされた『代償』という行為に、有無を言わせないぞっとした恐怖を抱き始めた。


『何か』を代償にすることで、一時的に天職の上限を解放し、より強力な能力を行使する。それだけ聞けばなんてことはない、アニメやゲームなんかでもよく聞く類の行為だ。

 だけど、目の前にいる死ぬことも老いることもできない久志羅ムイという女性を見て、彼女の後悔に溺れた瞳を見て、そんな簡単なことじゃないんだと気が付いた。


 代償ってのは、もっと恐ろしい何かなんだと知った。


 聞くべきなのか、聞かないべきなのか――少しの間悩んだテンジであったが、勇気を出して聞いてみることにした。

 彼女の過去を、一体久志羅ムイという女性に何があったのか、何を代償にしたのか、何を得たのか。知らなければならないと思った。


「その……もっと詳しく話を聞いてもいいですか?」


「もちろんだよ。少し長くなるけどいい?」


 それから少しの間、テンジは久志羅ムイという女性の過去を聞くことになった。


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