第2話
――2週間前。
『次は御茶ノ水、御茶ノ水。お出口は右側です』
空いている片手でスマホを持ち、今月の家計簿アプリを眺めているようだ。
そこには『今月の残高:¥105-』と表示されていた。もはやマイナスに届きそうな貧相な数字を見て、テンジの顔は一層険しくなっていく。次のページを捲ると、人目を気にせずに「はぁ」と大きなため息を吐いた。
そんなテンジの着ている衣服は黒い生地に灰色ラインの入った高校の制服なのだが、どこか貧相に見えるのは、家計の苦しさを如実に表してるように思えてならない。
「この中規模レイドが終わったら、来週も田口さん夫婦のパン屋で廃棄パン貰って食べ繋ぐしかないのかなぁ……はぁ、ひもじい」
一人でぼそりとと呟いた悲しい言葉は、電車の騒音にかき消されていく。
テンジはこれから有名ギルドが取り仕切る、中規模のダンジョンレイドに参加する予定だ。
この時代では、ダンジョンで生計を立てる人たちのことを『探索師』と呼ぶ。
ローンは組めず、大きな買い物は基本的に一括購入しかできないかなりピーキーな職業だが、夢のある職業だった。億万長者になれる可能性もあり、英雄やヒーローとして多くの人からの人気も高く、探索師になろうとする若者は意外に多かった。
もちろんテンジもその一人だ。
理由は元々両親が探索師だったこともあるが、数少ない『固有アビリティ』を生まれながらに持っていたこともあり、探索師とのしての道を歩み出していた。
そんなテンジが再び、はぁとため息を吐いた。
(妹の修学旅行代も今から積立しておかなきゃならないし、借金の返済もある。光熱費も掛かるし、食費を切り詰めるほかないよな。この交通費だって痛い出費だ。臓器が高く売れるって映画で観たことあるけど、どうなんだろう。……いや、それは止めよう。探索師の資本は体だ。めげずに頑張れ!)
電車が御茶ノ水駅で止まり、テンジは考え事をしながら降りていく。
そのまま聖橋口へと向かい、虚しく引かれていくICカードの残高を眺めながら改札を出る。そこから淡路坂を下っていくと、煉瓦造りの高架下が続いているのが見えてくる。
昔はこの高架下にひっそりと飲食店や雑貨店があったらしいが、今はまるで違う繁華街にも似た街が広がっている。
この御茶ノ水には、世界に47箇所しか存在しないダンジョンの一つが出現した。これが大きな理由の一つだった。
通称、御茶ノ水ダンジョン。
等級、つまり難易度はそれほど高くはなく、下から数えて二番目の『四等級』と設定されている。
ダンジョンの等級は、世界探索師協会(通称:WSA)が「MP原子」という未だに解明されていない未知のエネルギー濃度を測定し、決定されている。
ダンジョン等級は下から、五等級、四等級、三等級、二等級、一等級、
御茶ノ水ダンジョンは難易度がそれほど高くないおかげもあり、テンジのようなプロの探索師でもない高校生でも事前の申請さえ通ってしまえば、簡単に入場することができてしまうのだ。
そうは言っても、テンジはただの学生ではない。
日本探索師高校。日本で唯一の探索師を育成する高校に在籍している理由もあって、今回のように危険ではないダンジョンに限り申請が通るのだ。
それでも知り合いに探索師がいない限りは、高校生の段階でそう簡単に入場することはできない。テンジは両親が探索師だったこともあり、探索師の伝手だけは運がいいことにあったのだ。
「今日も賑わってんなぁ……。あれは中国の観光団体かな? そんなに爆買いしちゃって、金持ちかよ」
テンジは誰にも聞こえないように皮肉をぼそりと呟きながら、淡路坂を下っていく。坂を下り終えると、そこには大きな交差点がある。その交差点を横断すると、ようやくそこで御茶ノ水ダンジョンの入り口施設が見えてきた。
施設といっても商業施設なんかとはまるで違う、ただコンクリート壁や金網フェンスで周囲を厳重に囲まれているだけである。もちろん周囲には部外者の侵入を防ぐ対策や巡回の自衛官が多く存在する。
ダンジョンが発生して23年経っても、これほど簡易的な壁しか築かれていないのは、ダンジョンゲートが大きすぎてすっぽりと覆うことができないからであった。
高さ約600m、幅も100mを超えるダンジョンゲートは、黒曜石のような黒い鉱石で作られている。
扉は10人ほどが並んで入れるほどには僅かに開いており、扉の中には墨汁のような黒い油膜が張られている。そこを通ればダンジョンに到着するわけなのだが、中の光景を自分の目で見た人間は意外に多くない。探索師として活動しない限りは、ほぼほぼお目にかかることはないのだ。
テンジはその巨大な漆黒のゲートを見上げながら、ゆっくりと道路を進んでいく。
ダンジョンの周囲は十数年前に再開発計画が進められ、今では多くの店や施設がひしめきあう観光名所となっている。
お店といっても飲食店などは意外と少なく、アイテムを売買する店や武器を売買する店がずらりと並んでいた。もちろん目玉が飛び出そうなほどに高価なものから、安価に買えるアイテムまでが揃っている。
「やっぱ高いなぁ」
テンジは道中にあった武器店のショウケースに飾ってある高価な西洋剣を見つけ、まるで子供がオモチャをせがむような瞳でジッと眺め始めた。
値札には『三等級武器:霊撃剣 ¥15,000,000-』と書かれている。
その値札を見るや否や、テンジはいつもの癖で「食費1000ヵ月分って……」と食費計算をしてしまい、現実を突きつけられてしまったのであった。
テンジの家はわけあって、笹塚で妹と二人暮らしをしている。
それも半年前にダンジョンで行方不明になった両親の残した借金7,000万円を抱えているため、兄弟二人で食費を切り詰めて貧しい生活を送っているのだ。
どう足掻いても今のテンジにはこんな金額を出せるわけがなかった。
「はぁ、僕もいつかはこんな武器を買いたいけど……」
そう言いかけ、テンジは妹の
妹はテンジよりも二つ歳が低く、現在は中学二年生だ。思春期でもあり成長期でもある時期、本当はもっと肉や魚も食わせてあげたいけど、そんな余裕は残念ながらなかった。
本来ならば施設に行く選択もあった。しかし、天城兄弟はあえてその選択を拒んだ過去がある。
「僕の武器よりも先に……真春に肉をたらふく食わせてやりたいな」
兄として、何よりも妹の成長を願うテンジであった。
と、そんな時であった。
「――テンジくん!」
背後から聞き慣れた女性の声が聞こえてきたのだ。
聞き慣れたと言っても、ここ一か月くらいで話す仲になっただけであり、テンジにとっては優しいクラスメイトという印象が強かった。
「テンジくん! 集合前に会えて良かったです!」
同級生なのに丁寧な言葉を遣い、それでいて元気溢れる声。
テンジは声のする方向へと振り返り、少し恥ずかしそうに斜め下を俯きながら中途半端に片手を上げた。
「お、おはよう。朝霧さん」
「おはようございます! 今日はこんな機会を紹介してくれてありがとうございます。高校に入ったばかりでダンジョンレイドを体験できるなんて、テンジくんのおかげです」
「うん、朝霧さんが荷物持ちのアルバイトを一緒にしてくれるなんて僕も助かるよ。でも、本当に良かったの? 朝霧さんの固有アビリティだったら、普通に補助探索師としても引っ張りだこだと思うけど」
「荷物持ちでも、高校一年生から体験できることに価値があるんです」
テンジの横に並ぶように歩き始めた朝霧愛佳は、ほんのりと頬を膨らませ、ピシッと指摘するようにテンジの鼻先を指さした。
テンジと同じ日本探索師高校の一年生であり、テンジとは違って勝ち組の固有アビリティを持って生まれた女性だ。
栗色のボブ気味な髪の毛をいつもは下ろしているのだが、今日はダンジョンという理由もあってなのか、彼女にしては珍しく後頭部で一つに結んでおり、歩くたびにポニーテールがゆらゆらと左右に揺れていた。
一つ一つの仕草が上品で、誰に対しても優しく丁寧に話せるクラスでは人気者の朝霧はテンジを何かと気にかけ、今回一緒にレイドに参加することになったのである。
そんな朝霧はあまり御茶ノ水に来た経験がないのか、物珍しそうに辺りを「ほぇ~」と見渡しながらテンジの歩幅に合わせて歩いていた。
「そういえば朝霧さん、インナースーツ持ってたんだね」
「はい、初めてダンジョンレイドに参加するということを両親に伝えたら、色々と送ってくれたのです。……私に甘いんですよね」
朝霧は少し恥ずかしそうに頬を朱色に染め、にっこりと笑う。
彼女は学校から支給される深緑生地に白のラインが施されている制服を着ていた。その首元から肌に密着するように青色の生地が見えていたのだ。それがテンジの言う、インナースーツである。
ダンジョンでは、ゲームなどでよくある防御力のあるアダマンタイト製の防具なんかは一切出ない。その代わりに、服の下に着るインナースーツが唯一の防御装備として現れるのだ。
インナースーツを着ていると一定以上の攻撃を無力化する効果があったり、体の動きを補助する効果があったりするため、基本的にプロの探索師はこれを私服の中に来てダンジョンに挑むのだ。
私服はジャージであったり、ガチガチの運動着であったり、お洒落をしてくる人だったりと、かなり個性が出ることで有名である。
(それにしても青生地って……確か結構高かったよね。僕もいつかは欲しいな)
テンジは高校生活や彼女の言動を通して、気になったことを純粋に投げかけてみることにした。
「ずっと思ってたんだけど、朝霧さんのお家って裕福? インナースーツだって安くても10万円はするのに、たぶんその青スーツって50万円くらいする四等級アイテムでしょ? あっ、変な詮索してごめんね。答えたくなかったら全然いいよ」
テンジは彼女の裕福さに少し嫉妬していたのかもしれない。
毎月パンの耳やもやしで腹を満たしているテンジにとっては、50万円のアイテムをポンッと渡せる朝霧家が羨ましかったのだ。
「……過保護すぎるんですよ」
彼女の顔が少し曇った。
その様子を隣で見て、この話題は触れてはならなかったのだとテンジは悟った。
「えー……えっと……。あ、朝霧さんって、荷物持ちは初めてだよね?」
「はい、初めてですよ。今回はテンジくんの後ろ姿を見て、学ばせていただきますね」
「そりゃあ頑張らなくっちゃね。とはいっても高校で習った通りだから、朝霧さんに教えることはなさそうだな」
「教科書と現実は違うことが多いですからね。失礼を承知で聞きますが、テンジくんは今回で何度目ですか?」
「僕は……サブダンジョンはもう何回潜ったかわからないかな。メインダンジョンは7回で、内レイドは5回経験してるよ」
「わぁ! やっぱりテンジくんは凄いですね。もうベテランさんですよ」
「あははは……まぁ、荷物持ちなんだけどね」
「それでも凄いものは凄いのです。同い年なのに、私はまだ一度もダンジョンにすら入ったことがないのですよ? それこそ他の同級生だって未経験者がほとんどです」
彼女はよくテンジを持ち上げるが、テンジにはただの謙遜にしか聞こえてはいなかった。
ただ生きるためのお金が必要だったからダンジョンに潜っているだけであって、本当であれば《天職》の持っていない内からは参加したくないのがテンジの本音だ。
そうして他愛もない会話を続けていること、五分ほど。
二人は目的の集合場所へと到着する。
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