味をしめる俺、俺をしめる君

地底人ジョー

本編

「愛と欲望の味?」

「タク、今エロいこと考えただろ」

 黒板の下に突き倒された俺を、ユウキが見下ろしてくる。

 俺の顎をカッターの刃先でくすぐりながら、せせら笑うように口を歪め聞いてきた。

 真っ直ぐ刺すような視線は、俺へ非難や軽蔑を向けているのではないことくらい、長年の付き合いから分かっている。

 ……いや、事ここにいたっては、少々自信がなくなってきたのだが。

 満足に顔を動かせないまま、俺は弁解を試みる。

「いやな、健全な男子なら、そんなんエロい意味にしかきこえない。男子とはだからこそ男子なのだ」

「ふーん? タクが変態なのはいいとして、それを一般化するのはどうなのさ?」

 うぶげのような俺の髭を、カッターの先で弄ぶユウキ。さわさわと頼りない感触が、逆に触られていることを意識させる。何かえも言われぬ心地になりそうで、俺は必死に抵抗を試みた。

「そうは言ってもだな? ユウキ、この教室に積み上げられている物を見てもみよ」

 ……ユウキの視線は動かない。

 めげずに続ける。

「春画に春画本、官能小説、果てはロマンポルノまで。これらはすべて、我が校の健全な男子諸君が持ち寄った物だぞ? 特定のだれか一人が持ち込んだのではない。男子生徒諸君の、煩悩の集大成だ。学び舎にわざわざ持ってくるほどの、熱意の証だ。これこそが男子の本質だとは思わんかね?」

「うん。エロ画像にエロ本にエロラノベにAVね。まぁ言いたいことはわかるんだけどさ。でもね、そんなモノはこの際どうでもいいんだよね」

 カッターの、うぶげが逆立つような感触が遠ざかる。

 ユウキは器用にも、くるんとカッターをひとまわし。片手で逆手に持ち替えた。

 そして振り下ろす。

 トッ、と鋭利な音を立て、すり減った床に突き立つ刃。

 いや厳密には、床の上に一枚あった、装飾の美麗な便せんの上にだ。

「私が言いたいのはさ? この差出人Xエックスさんがタクから欲しがってる、『愛と欲望の味』についてなのさ。何か申し開きはあるかい?」

 ……。

「――いや、皆目見当がつかぬな」

「ふぅん……?」

 メスのような視線が、俺の目を切り裂いて脳髄に入り、執拗に撫でまわしてくる。

 ユウキの手は、だらんと俺の両脚の脇に降ろされていた。

 にもかかわらず、顎先にはしるチリチリとした感覚。

 喉の奥が、おそるおそる唾液を運ぼうとし、視線に縫い止められる。

 いささか荒っぽい、ユウキの「触診」は終わらない。

「……」

「……」

 ああ、窓の外から聞こえてくる、野球部員たちのノンキな喚声が恨めしい。

 テニス部、お前らもだ。更衣室への春画本隠蔽を、穏便に始末してやった恩を忘れおって……。

 俺がバレー部への逆恨みをでっち上げようとしていた頃、ようやくユウキが瞬きした。

 忘れていたように鼓動の音が聞こえてくる。

 ユウキは刃先から外した便せんをクシャっと丸め、ポケットへ無造作にねじ込む。

 その拍子に見えたポケットの隙間に、ドキリとした、安心感。

「ま、今日のところは信じてあげるよ」

「あぁ――そうしてくれ」

 何気なく立ち上がり、ため息と共に答えた、その瞬間。

 ユウキは俺の顎をむんずと押し開くと、順手で差し込んできたカッターの刃先を、ピリ、と一瞬押し当ててきた。

 至近距離に迫るユウキの顔。

 艶やかなふてぶてしさと、無邪気な冷たさが頬を撫でる。

 磨いた刃先のような瞳の中に、必死に表情を取り繕うとしている俺の顔があった。

「――。今日は、ね」

 糸がほつれるように微笑んだユウキは、カッターを俺の口から遠ざける。

 そして顎を掴んだ手の親指を、そっと俺の舌先に這わせると、ゆっくりと引き抜いた。

 うっすらと紅に染まった自分の親指を楽しげに見て、その指で自分の唇をなぞるユウキ。

 俺は、どこか頭の後ろの方で、その様子を呆然と目に映していた。

「じゃ、委員長。また明日ね」

 艶然と微笑み、ユウキは教室の鍵を開けて出て行った。

 軽い足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。

 冷たい黒板に背中を預けた。

 そっと舌を口の中に這わせると、仄かに錆びた甘い香り。

「あぁ――。また明日、な」

 ポケットの隙間から覗く、美麗な便せんの束。

 それを虚空に見ながら、俺は呟いたのだった。

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