髪の毛とシャンプー



 角部屋にたどり着くと,またカードキーを出してかざした。ホテルの部屋のように接触した瞬間に軽い音がして,ロックが解消された。ドアノブを回すと,一人暮らしには広すぎる玄関が現れた。

 遠慮がちに履を脱いでいると,白いスリッパが置かれた。


「汚いから,良かったら履いてください」

「そんな・・・・・・,私の部屋よりも実家よりもどこよりも綺麗ですよ。さすが飲食店をされるぐらいなので几帳面にされてるんですね」

「たまたま今朝掃除をしただけなんですけど,細かいところはあまり見ないでね。まあ,座って。コーヒーを入れてきます」


 そう言ってトオルさんはリビングへと私を案内した。これまた一人で使うには広すぎるソファに座らされた。ほど良い柔らかさで沈んでいく身体に身を任せ,コーヒーを引く香りを遠くから楽しんだ。



「お待たせしました」


 私の前に深い香りのコーヒーが置かれた。

 白色をベースに口元が金色で縁取られた高級感のあるカップを眺め、口元へと運んだ。引き立ての豆の香りが鼻を通ってきて心を穏やかにさせる。口に含んで味を確かめるようにして飲むと,ほんのりとした苦みの中に深みが感じられた。


「とってもおいしい。どこの豆ですか?」


 聞いた後で,そもそも豆にそんなに詳しくないのに聞いたところで話が弾むわけでもないのにと思ったが,覚えておけば同じ豆を買えるかも知れない。そして,トオルさんのいない日でもトオルさんを感じることができる。


「それが,実はブレンドらしいんですけど教えて貰えなくて。うちのバーの一階が喫茶店になっているのはご存じですか? あそこでブレンドコーヒーの豆を買っているんです。店主はくせ者ですけど,かなりのこだわりがあるらしくて味には間違いないです。ただ,そこに置いている豆の産地やひき方は絶対に教えてくれません」

「へええ。おもしろそう。今度行ってみようかな。意外と業務スーパー度かでそろえたりしていたら笑っちゃいますね」

「そうそう。そういう人にも出会ったことあるよ。まあお店のコンセプトにもよるだろうけど,でもあのおじさんに限ってはあり得ないね。もしかしたら納得した味を出すためにコーヒー豆を自分で栽培していたりして」


 私たちは三人掛けのソファに身を寄せ合いながら笑い合った。

 右手に持ったコーヒーカップには私の顔が映っている。こんなに自然に笑ったのはいつぶりだろう。左側に座ったトオルさん、この生活が当たり前になったらどれほど幸せだろうとふと考えた。この時間がいつまでも続けばいいのに。

 コーヒーに口をつけると右側の腹部に感触がある。目をやると,そこには手が伸びてきて抱き寄せられるようにして私の体が左側に傾いた。



 私とトオルさんは体を重ね合わせた。その間特に言葉は交わさなかったが,甘い言葉を掛け合わなくても,十分に一つになれた。彼の体はその細身の外見からは想像も出来ないほどに引き締まっていた。胸板はなめらかに盛り上がり、腹筋はきれいに割れていた。


「シャワーを浴びさせてもらってもいい?」


 タオルケットを体にまとって立ち上がり,ベッドの上で果てているトオルさんを見た。


「トイレの横の扉が脱衣所になっているから,自由に使って良いよ。タオルは・・・・・・こっちにある」


 そう言って起き上がると「休んでて」という私の言葉をさえぎって脱衣所まで案内しくれた。新しいタオルやドライヤー、化粧水や綿棒のありかを一通り教えてくれた後,ごゆっくり,と言って脱衣所を出ようとした。

 一人で使うのには大きすぎるドラム式の洗濯機を見ながら,タオルケットをそこに入れようかと迷っていると,後ろからハグをされた。そしてそのまま手のひらは私の体をむさぼり,向き合った体はお互いを求め合った。




「お邪魔しました。・・・・・・その,また来てもいいかな」


 遠慮がちに言った。もしかしたら,トオルさんは性欲のはけ口として私を見ていたのかも知れない。そんなことはないと心の底から分かっていながらも,返事を聞くのが怖かった。男の人に言いように使われるはまっぴらだと思っているけど,今回は順番を間違えた。でも,それを承知した上で家に上がり込み,事実私はあの状況を受け入れたのだから何も言い訳のしようが無い。人のことになると偉そうになるくせに,自分のこととなると途端に見境がなくなる。

 顔はうつむいたまま,目だけで相手の反応を伺った。



「そんなかわいい顔して,これ以上男心をくすぐらないで。荷物がまとまったらうちで暮らしたら良いよ。・・・・・・ごめん,偉そうなこと言ったね。もし良かったら,一緒に暮らそう」


 はい,と答えていた。有頂天になったまま抱きついた。満足のいくまで力一杯抱きついた後、荷物をまとめておきます,といって別れた。

 外に出ると,日が昇りかけて朝焼けが山の端から現れていた。冷たい風が優しく顔をなでた。髪の毛が顔にまとわりつくのを払おうとしたが,やめた。髪の毛からはシャンプーの匂いが漂っている。




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