幸せを求めて〜花に水が染み入るように〜


 いよいよ日取りを決めようという段になって,困ったことになったと愛想笑いで乗り切っていたが限界がやってきた。スマートフォンのディスプレイの中から,スケジュールを管理するアプリを開いていたが,まずは連絡先を交換することになった。

 乗り気ではないが仕方がない,と思ったその時,中村さんはトイレに立った。トオルさん,間違えちゃったんじゃない? という言葉を残して少しふらついた足取りで進んでいった。


「間違えちゃったって何をですか? アルコールがきつかったのかなあ」

「間違えたかどうかは,まだ分かりません。ただ,私もあなたも気を付けないといけないのは確かかもしれませんね」


 何を言っているのか分からなかったが,深くは聞かないことにした。でも,何を言っていたのかはすぐ分かることになる。その事実を知ったとたん,私は背中が凍るように冷たくなった。



 特に雑談をするでもなく,燻製ナッツをつまみながら時間を過ごした。ギムレットを口に含んで,舌にしみこませるようにして味わう。喉を通せば,その味わいが食道を胃に落ちてくるのが分かる。決して軽くはないが,手が伸びてしまう。明日,大丈夫かな。

 目の前にグラスが差し出された。


「本当においしそうに,味わうように飲んでくださりますね。冥利に尽きます。明日は必ずやってきますから,チェイサーもはさみながら楽しんでください」


 本当に心配りのできる人だ。人のことを慮って,さりげない言葉遣いでスマートに対応してくれる。なんて素敵な人なんだろう。

 グラスを丁寧に磨くその姿に見とれていると,明らかに体調がよろしくなさそうに中村さんが戻ってきた。

 私の隣に腰かけて,トオルさんを上目遣いで見た。


「トオルさん,あなた失敗してるよ。少しだけ休ませてもらうね」


 そのまま突っ伏した。トオルさんは舌をぺろりと出している。


 どういうことか分からず戸惑っていると,トオルさんが説明してくれた。

 どうやら私がいない間に恐ろしいことが計画されていたらしい。

 簡単にまとめると,中村さんの計画では睡眠薬を私のお酒に入れて眠らせるつもりだったらしい。ドラマでしか見たことのないその展開に背筋が凍りそうになるが,飲み物に睡眠薬を入れ作るように頼まれたトオルさんはその申し出を断ったらしい。そこで揉めているところでドリンクをこぼしてしまい,そこへ私が戻ってきたということらしい。

 しかし,話はそこで終わらなかった。

 執拗な中村さんの目配せに嫌気が差したトオルさんは,とうとうその睡眠薬を使うことにした。私のドリンクに睡眠薬が入っていると思い込んでいた中村さんは,自分の飲み物とピザにまで入れられていることには気付きもせず,嬉しそうにしていたというわけだ。トオルさんはサービスと称して二人分のドリンクとピザを作ったわけだから何も違和感は感じないだろう。

 どうりで視線を感じたわけだ。急に下劣な男に見えてきた隣の突っ伏したおじさんを横目に見ながら,ナッツを口の中に放り込んだ。

 困ったことになったなあ,とこめかみをさすりながらトオルさんはこの困ったおじさんを見下ろしている。確かに,店にこのままいられても困りますね,と言ったが,事態はそんなに単純なことではなかった。

 トオルさんとしては私を守るためだったとはいえ,お客様に提供するものに異物を入れたという事実は大きい。また,あとで中村さんが怒りで何か報復をしてくるかも,という見立てもあったが,警察に相談したら済むという私の考えも甘かった。少なくともこの店に対するイメージダウンは免れないだろうということに間違いはない。被害者でもありながら,とんでもない大迷惑をかけてしまったのだ。


「ごめんなさい。私・・・・・・,なんと言ったらいいのか。迷惑でした。もう・・・・・・,ここには来ません」


 口にした瞬間、堰を切ったように涙がこぼれそうになった。やっぱりこの場所が,この人が好きだったのだ。


「何を言っているんですか。私は,あなたが守りたくてこの行動を取ったのです。私に後悔させないでください。守りたい人を守れたのに,離れてしまうなんて。絶対にだめだって自分に言い聞かせていたけど・・・・・・,僕はあなたに惹かれているみたいです」


 うつむいて,近くにあったグラスを磨き始めた。

 え,今この人は何て言ったの? 花に水をやるように,その言葉は時間をかけて静かに私の中に入り込んでいった。

 

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