幸せを求めて〜さよなら千鳥足,走り書きのレシート〜


 言葉の意味を聞きたかったが,探るための発言に慎重になりすぎて何も言い出せなかった。一つ一つの単語の意味は分かるのに,文章として並べられると正しい解釈が出来ているのか自信がない。どうして聞けないのだろう。きっと私は,期待から外れることを恐れている。今までさんざん期待と違った経験をしてきたのにも関わらず・・・・・・。恋にいつまでも臆病なのは変わらない。

 ため息をつきながらギムレットに口をつける。そうこうしていると,隣で薬に溺れたおじさんが寝ぼけ眼で起き上がった。


「ん・・・・・・,少しばかり眠っていたみたいだ。トオルさん,水を一杯いただけるかい? 少しだけ,頭が重い・・・・・・。ああ,そうだ,グラスはしっかり拭き取ってあって中には何もないかしっかりと確認をしておいてくれ。間違いのないようにな」


 分かりました,と言ってグラスを手に取り,冷えた水を注いだ。

 思わず笑いがこぼれそうになるのナッツを食べながら必死で隠した。悪いけど今日は先に帰らせてもらうね,と薬漬けになった体にグラス一杯の水を体に染み渡らせてから立ち上がった。口の中でうまみが広がる。歯の隙間から出てきたおつまみのかけらを歯で押しつぶすような爽快感が胸の中で広がった。



 中村さんがふらつきながら退出したところでこのバーにいるのは私とトオルさんだけになった。

 ビジネスバックを忘れて手ぶらで帰ろうとするのを追いかけて私に行った。長居する訳ではないが,つかの間の二人の時間を邪魔されるのは迷惑だった。

 腰を落ち着かせて,この数時間を振り返る。ただの一日とは言い切れない濃い時間だった。


「今日は,助けていただきありがとうございます。・・・・・・,中村さん,帰っちゃいましたね。私,お持ち帰りされていた可能性もあったのかな・・・・・・」


 グラスを拭いたままトオルさんは何も言わない。作業をしながら下を向いた顔には,伸びた前髪がかかっており表情がつかめない。時計は二時を大きく回っている。そろそろ店じまいの時間だ。


「そういえば,中村さんお会計してないですよね? お礼の意味も込めて,二人分の会計を私にさせてください。もちろん,トオルさんに対するお礼ですよ」


 上手くはにかめていなかったのだろうか。トオルさんは私の顔をじっと見つめている。そのまま磨いていたグラスを置いた。


「いえ,中村さんの分は結構です。私も悪いことをしましたので。会計は・・・・・・,そうですね,一人分頂いた方がいいのかな・・・・・・」


 考えるようにそう言ったかと思うと,少し間をおいてカウンターから身を乗り出した。

 突然のことで何をされているのか分からなかったが,私のくちびるからトオルさんの体温が伝わってきた。



 このまま夜風に飛ばされてしまのではないかと思うほど体はふわふわとしていた。

 唇をそっと人差し指で撫でる。まだ胸のドキドキがおさまらず,何度も何度も唇を舐めて湿らせている。そのせいか,唇がぱさぱさに乾燥して口づけにはふさわしくない。

 店を出てから唇をやたら舐めているからだといいのだけど,今日一日中乾燥していたのだとしたらと思うと気が気ではない。

 バーの中でのことを思い返す。別れ際,間違いなくトオルさんの唇が私の唇と重なった,と思う。夢から目覚めた時に感じるような,一瞬でつかみどころのないその刹那を思い出そうと記憶を手繰り寄せる。でも,だいたいの夢がそうであるように,その時のことをはっきりと頭に思い浮かべることが出来ない。ただ,心臓が大きく高鳴るばかりだ。

 帰り際,渡されたレシートの裏面を改めてみる。この目で見ると,やはり間違いないのないことは一つだけある。

 そのレシートの裏には,トオルさんの連絡先が走り書きされていた。




「波瀾万丈ねー。それにしても,なんかいつも進展早すぎない?」


 ホットコーヒーを飲みながら夏妃と向かい合っていた。タートルネックの襟を気にしながら連絡先の書かれたレシートをとんとんと叩き,嬉しそうにこちらを見る。


「で,どうだったの?」

「どうって何が?」


 分かってるくせにじれったいなあ,とモンブランの上に載った栗をつつく手を止めて,代わりに親指と小指を立てた拳を耳に当てた。


「かけたんでしょ? 電話。今度はいつ会うの?」

「いや・・・・・・,まだかけてないけど」


 えー! と大きな声を上げて目は飛び出しそうなほど見開かれている。近くのテーブルに座っていた何人かがこちらを見た。


「ちょっと夏妃,声が大きいから」

「だってあんた,このレシート一週間も前のやつじゃない。それまで放置していたの!? 駆け引きが上手な子は違うね~」

「いやいや,駆け引きとかじゃなくて,ただ・・・・・・,何てかけたら良いの?」

「は? あんた中学生じゃないんだから,そんなんかければどうだってなるよ。バーでお世話になった挨拶でもしたら?」

「でも,時間が空き過ぎちゃったしな~」

「だから普通次の日かその日のうちでしょ。まあ,ピザ作りたいんだったらお願いしてみたら? それか,旅行とか♡」


 旅行、無理無理。でも,ピザのお願いはいいかな? 図々しいかもしれないけど,今晩,かけてみよう。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る