幸せを求めて〜彼の名は中村さん〜
学生の頃,幸福とは言えない経験があった。
あまり上品な学校ではなかったため、中学生の頃は良く先輩から声をかけられた。うぶな恋心からくる声掛けならば良いのだが,それは明らかに性的な意味を含む興味本位なものだった。
声をかけられるということ自体に喜びを感じていた中学校二年生の頃,私は言われるがままに先輩の家へとほいほいついてった。そこで,男と女の関係を求められた。
怖くなった私はそこで正直に怖いからまた今度と断りを入れると,その瞬間に温和だった相手の態度は豹変した。今にも襲い掛かりそうだった。とっさに,今生理だから部屋を汚したくない。恥ずかしくて嘘をついてごめんなさい。ほんとはしたかった。といった。そうすると,相手は元の柔らかい表情に戻った。
人は怖いとその時に思った。
でも,話はそこでは終わらない。
若いということは失敗が付きものだ。失敗してもいいから、と学校の先生にもよく言われた。大人は失敗をしたくない生きものだと知ったのはそれからずいぶん経ってからだ。あの時の先生はずいぶん無責任な人だったのだと今は思う。
これまで失敗した経験と言われたら,夏休みの出来事は外せない。あれはくそ暑い夏の日の冷房の効いた人工的な空間での出来事。
当時仲良くしていた先輩と,カラオケの行こうと誘われた。ただで全部奢ってあげるよと言われて,友達を誘ってもいいと言われたこともあってほいほいついていった。その先輩は,体育祭の応援団長をしていた後輩たちのあこがれの存在でもあったため,他の条件なんてどうでも良かった。
塾が終わってから約束していたカラオケ店に向かったため,私はその場所に遅れて参加することになった。友達と先輩がいるだけだと思っていた,あらかじめ伝えられていた部屋番号の扉を開けると,そこには知らない人が複数いた。
それは,怖い人たちだった。
今の私の生活は失敗を犠牲に成り立っている。過去のことは振り返りたくはないのだが,そのような過去は誰にでもあるだろう。そして,人は同じ過ちを繰り返す生き物だ。特に私は。
カラオケボックスに入ると高校生ぐらいの二人の男の人に手招きをされて,間に座るように言われた。そこにいた初めて見る人たちはきっと高校生ぐらいだったように思うが,土木系の現場の格好をした埃っぽいままの作業着の人もいたので,もしかしたら高校を中退した人か,高校を卒業した人もいたのかもしれない。いずれにせよ,その人たちがどういう人だったのかは分からない。その日以来会うこともせず,その日限りの関係だったから。
先に来ていた私の友達は,はっきり言って今まで一緒に過ごしてきた人格とは別の物のように思えた。それがお酒の力によるものだと気付いたのは少し経ってからである。
私がもうすぐ着くと聞いていた男たちは,私のために飲み物を頼んでくれていた。店員がそのドリンクを持ってくると,乾杯をしてまず飲み物を半分ほど飲むように言われた。何も考えずに口に含んだ私は,炭酸と甘さが混ざり合って爽快感のあるピンク色の液体をしっかりと飲んだ。喉を通って胃袋に液体が落ちるのが分かった。液体の通り道が分かるかのように温度が急激に上がった喉元をさすりながら,これがお酒なのだと初めて知った。
そのあと,どうなったのかははっきりと覚えていない。人は嫌なことは忘れる生き物だ。そうすると,都合がいいから。いじめをした人間は覚えていないが,いじめをされた側の方は人間はいつまでも覚えている,という。それは確かにそうだと思う。でも,私は最近その理屈は自分のように弱い人には通らないのではないのではと思い始めた。嫌なことを忘れずに,訴えることが出来るのは精神的な強さと正義感を必要とする。きっと私は,自分の中での汚れた記憶や,辛いことを忘れることで自分を守っている。人は忘れる生き物であり、私は逃げる生き物だ。
あのカラオケボックスでの出来事ではっきりしていることは,同級生の女友達の下着が床に投げ捨てられていたこと。衣服こそまとっていたものの,淫らな格好ですやすやと果てるように眠っていたことだけだ。私は下着を身にまとってはいたが,年上の先輩の膝に挟まれるようにして座って体が固まっていた。たぶん,体を傷つけられるようなことはされていない。
そんなこともあったから,二人で飲んでいるときにお酒を強く進めてくる男性は警戒する。特に,大人になってから失敗なんてそうそうしたくない。お酒自体は悪くないけど,お酒は人の悪いところをもろに強調して,絶望の沼へと引きずり込んでいく。その恐怖感を私は知っているから,今日はこの男性を相手にどのように振る舞うべきか決めかねていた。
中村です,と名乗った男性は私と同じ飲み物をバーテンダーに注文した。
「ジントニックですか。お酒はお好きですか?」
「人並みに好きです。特にここのお酒と料理は特においしいですから」
「それはお目が高いですね。私もここがお気に入りで,近くに来たときには必ず立ち寄ります。こちらにはよく来られるんですか?」
「お店を知ったのは最近です。でも,常連になってしまいそう」
ちらっとバーテンダーの様子を盗み見ると,彼は作ったジントニックを中村さんに出すところだった。その顔の表情からは何を思っているのかがつかめない。まるで,蒸気のような人だ。確かにそこにはあるのに,つかんだ感触が全くない。それなのにぬくもりは感じられる。
「もしかして,トオルさんのことを気に入ってます? 彼女持ちだからややこしいことにならないようにしないとね。でも,確かに彼は魅力的だ。男を見る目もあるんだね」
中村さんの一言に胸が針で刺されたように反応した。グラスを手に取り,煽るようにしてジントニックを飲み干す。
そうだ,私は完全に思い込んでいた。考えてみれば,こんなに素敵な人に恋人がいないはずがない。少し離しただけで女の匂いがしないと勝手に思い込み,都合のいいように解釈していた。目の前のバーテンダーには恋人がいる。愛し合っている人がいる。その事実を突きつけられたとき,初めて私は彼に恋をしていたのだとはっきりと認識した。そして,失恋をした。こんな気持ちは久しぶりだった。
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