幸せを求めて〜燻製の魅力〜


 もともと恋には奥手で,恋活を始めたのも周りのすすめということもあったし自発的に動いたりすることなんてなかった。駆け引きなんて大の苦手だし,エスコートが上手にできる人と自然と結ばれてきた。

 そのはずなのに,自分でも驚くようなことを口にしていた。


「今度,お休み日にピザを一緒につくっていただけませんか」


直後,顔から火があがるのではというほど体温が上昇したのを感じた。喉が縮こまり,空気の通り道が狭い。バーテンダーの顔を直視することすらできなくなってしまった。しかし,すぐに私の体温は氷水でしめられたかのように下降していく。


「それはとても楽しそうですね。でも,すみません。お客様とプライベートで関わらないようにしているのです」


そうだよな。きっと,バーテンダーの優しさでやんわりと断ってくれているのだろうが,よく知りもしない相手と休日会うだなんて気が引ける。それに相手は何か訳ありで酔いつぶれに来たような客だ。面倒なことを店に持ち込まれたくもないはずだ。

 それに,私はなんて軽率な女なのだろう。始めた合った相手に恋心を抱くなんて,まるで中学生みたいだ。年を取って変わるのは見た目だけで,何にも成長しないんだな。


「最後に,ギムレットをいただけますか? これを飲んだら帰ります」


 燻製されたナッツを口に放り込み,ジントニックを流し込んだ。


 数日あけて,私は同じ場所に来ていた。毎日来たかったのだが,ストーカーじみた行為だと思ったし,何より自分の中に秘められたストーカー気質のようなものが開花するのではないかという恐怖感もあって無理やり自分を抑え込んだかのようにして気持ちと行動が一致しないようにした。

 いらっしゃいませ,とバーテンダーが扉を開けた私を見て声をかけた。私のことを覚えているのだろうか。覚えてくれているなら素直にうれしい。もし覚えてくれていなくても,少しづつこの店の常連のようになって気兼ねなくバーテンダーと話せるようになりたい。

 席について,まずジントニックを頼んだ。


「以前と同じように,ミントはお入れしても良いですか? うちのは香りが強いものを選んでいますので,苦手な人も多いのですが・・・・・・」


 手元のグラスを手に取ってふきんで磨きながらバーテンダーは言った。

 覚えてくれていたんだ・・・・・・。確かに,初対面でピザデートを取り付けようとする女は記憶にこびりつきやすいかもしれない。それは落とすのが困難な油汚れのようなものかもしれないが,手元しか見ないバーテンダーを見ているともしかしたら,という淡く儚い希望を抱くのが恋愛に疎い女の幸せなところだ。せめてしばらくはこの幸せに浸らせてほしい。いっそ,溺れ死にたい。


「燻製のおつまみを頂けますか? それから,・・・・・・ピザも一つ」


 顔から火が出そうなほど照れ臭かった。ただ美味しかった食べ物を注文しただけなのに,何か別の意味が含まれていることを想像されるのではないかと気が気でなかった。実際,私は言葉の外に何か別の感情を含んで乗せていたのかもしれない。

 気に入って頂けたみたいでよかったです,と言ってバーテンダーは奥へと下がっていった。その時,入り口の扉が開いた。スーツ姿の30代半ばぐらいのダンディーな男性がビジネスバッグを提げて,座る場所を探している。仕事が終わってどこかで食事をし,その後どこかくつろげる場所を求めてやってきたのだろう。

 テーブル席もあるが,待ち合わせでもなく一人でやってきたのであろう男性は私と同じカウンター席に距離を取って座った。ちょうど同時に厨房から出てきたバーテンダーは,男性に気付くと一瞬驚いたように立ち止まり,いらっしゃいませと言って軽く頭を下げた。男性は,久しぶり,と言った後に銘柄を確認してからビールを注文した。こだわりのある男は嫌いではないが,私にはビールの味の違いは分からない。ご当地ビールのようにフルーティーであまりにも癖の強いものは分かるが,アサヒを置いてないのか,と言って激高して居酒屋から出ていった元カレのことがよぎってビールに対するこだわりが強いやつにろくなやつはいないという持論がある。今回はどっちだろう。

 私の中で好奇心が火のついた焚火の煙のように立ち上っていった。


 ジントニックをちびちびと飲みながら,同じカウンターの離れた席で座っている男性を気にしていた。彼はしきりに携帯電話をチェックして,何かを打ち込んでいた。それは,親しい相手と連絡を取っているというよりは,プライベートにも侵入してくる仕事に対処しているように見えた。

 お待たせしました,という声と共に目の前に燻製のナッツが置かれた。


「今日は,ナッツを多めに入れています。気に入って頂けたのが嬉しくてつい。でも,他のお客様には内緒ですよ。ピザはもう少し時間を頂きますので,ゆっくりお待ちください」


 営業だと分かっていても,なんだか他の人と差別化されて贔屓にされているみたいで飛び跳ねそうになった。アーモンドを口に入れて噛まずに舌の上で転がす。十分にその芳醇な香りを楽しんでから奥歯で噛む。そうするとより一層燻製された香りが鼻から抜けて出てくる。噛めば噛むほどナッツのうまみと燻した深いコクが感じられるようで,一粒一粒味わって食べた。

 この店に来てから,今まで何となく食べていたおつまみに興味を持つようになった。燻製についても自分で調べてみて,何を使って燻製するかで香りも味わいも全く違うものになるのだと知った。味の区別はまだつかないけど,その奥深さにはまってしまいそうだった。


「私,ここにきてから燻製に興味を持って少し調べたみたんです。奥が深くて面白いですね。ちなみに,このお店では何を使って燻製しているんですか?」


 バーテンダーは他のお客さんのために作っていたカクテルをシェイクする手を少しだけゆるめて,微笑んだ。目尻によるこの皺が私はたまらなく好きなのだ。


「そう言っていただけると嬉しいです。時期によって変えたり,食品によって使い分けますが,これは桜を使っています。癖が強すぎず,親しみのない方にも食べやすいので」


 私が知っている素材だ。それだけで何かを共有できたみたいで嬉しくなる。

 バーテンダーの顔が手元に集中する。不意に隣に気配を感じた。横を見ると,隣にさっき店に入ってきた男性が座っていた。

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