幸せを求めて〜ギムレットには早すぎる〜

 落ち着いた内装に洒落た音楽が興奮した気持ちを落ち着かせてくれる。

 いらいらしながら目に入ったバーに入った。この辺りはよく通るが,入ろうと思わなければビルのなかにあるバーにはなかなか入らない。

 普段なら入るとしても控えめにあたりを伺いながら入るが,この日の私は大胆だった。

 勢いよく扉を開けて,目に留まった近くのカウンターに腰を掛ける。店内にはテーブル席に男女の一組がいるだけで,あとは誰もいない。おまけに店内側のカウンターにも誰もいない。いったいお店の人は何をしているのだ。

 とにかく酔っぱらいたかった。すみませーん,と声を上げると,奥から一人の男が出てきた。30前半だろうか。長い前髪のせいで表情は掴めない。


「お酒をちょうだい。きつめのものがいい」


そう言った直後,お腹が鳴った。それはそうだ。夕食に向かったはずが,実質門前払いだったのだから。初めて出会ったの人の前で生理現象を聞かれてしまったが,恥ずかしさは微塵もない。どうせ二度と会うこともないのだから。

 わかりました,と言ってバーテンダーは奥へと下がった。目の前で飲み物を作らないのか。上でに自信がないのだろうか。しょうもない店に来てしまった。そんなことを考えていると,私の負のオーラが伝わったのかカップルが会計へと向かった。行きつけなのだろう。奥へと下がったバーテンダーに向かって「マスター,また来るね。お金は置いておくから」と言って出ていった。私が何をしたというのだ。みんな,訳が分からない。

 目の前に,ナッツとチーズとピザが出された。気付けば目の前にがさっきのバーテンダーがいる。


「お腹が空いているでしょう? 先に食べてからお酒を飲みましょう。ギムレットにはまだ早すぎるから」


何が何だか分からないけど,私は目に涙を浮かべてカシューナッツを口に運んでいた。


 ギムレットには早すぎる,か。おしゃれなことを言う人だな。

 カウンターの上には低めの位置にアンティーク調の照明があり,手元を照らしている。その明かりが目の前のおつまみや食事を一層魅力的なものとして映し出した。


「どうぞ,召し上がってください。お口に合うといいのですが。お飲み物は,空腹時にもすっきりと飲めるものはいかがですか? すっきりとした飲み口の中に爽やかな甘さがあります,ジントニックをお作りしましょう」


ありがとうございます,と言って素直に従うことにした。きっと一人で無愛想なバーテンダーと時間を共有していたら,間違いなく悪酔いして潰れていただろう。

 目の前でシェイクする音が心地よい。あれはどういう原理で振られているのだろう。ただ材料をグラスに入れてマドラーで混ぜるだけではだめなのだろうか。タンブラーのようにも見えるひょうたん型の不思議な容器をぼうっと見つめていると,棚からグラスを知れて注ぎ始めた。仕上げに,かぼすだろうか,柑橘系の果実をカットしたものをグラスに落とした。

 その所作があまりにも丁寧で無駄がなく,ナッツをつまむ手を止めて見入ってしまった。


ごゆっくりどうぞ。その優しい飲み物は気持ちよくのどを通っていった。



 ほどよい塩気の奥に上品な甘みが隠れている。蜂蜜だろうか。チーズも場所によって使われているものの種類が違うようで,そろぞれが主張をし合うわけでもなく控えめに,かつ重なり合って相乗的に深みを増している。尋ねずにはいられなかった。


「このピザはどちらのものですか?」

「気に入っていただけましたが? 趣味でピザ釜で焼いたものでして,休みの日にたくさん焼き上げたものを冷凍してお店で提供しているんです。本当は焼きたてを食べて欲しいんですけど,まさかバーの厨房にピザ釜を置けるはずもないからね」


え,手作りなの,と思わずつぶやいた。


「そうなんです。少食であまり食べられないんだけど,作るのは好きでして。お酒もですが,おつまみなんかも結構こだわっているので,気になるものがあったらおっしゃってくださいね」


バーテンダーはにこやかにメニューを差し出した。手になじむ革で作られたメニュー表を見ると,品数は少ないが目を引くものが多い


「この,燻製もご自分でされているのですか?」

「ええ,何か食べたいものがありましたか?」

「じゃあ,生ハムください」

「燻製ちゃうんかい」


不自然な関西弁でツッコミを入れるバーテンダーに思わず吹き出してしまった。

 良かった,やっぱり笑顔が素敵ですね。というバーテンダーにおつまみの燻製盛り合わせを注文した。バーテンダーが厨房へと下がっていくのを眺めながら,笑顔を褒められたのはいつだっただろうと考えた。

 スモークの香りと共にプレートが目の前に差し出された。石のような質感をしたプレートは洗練されていて高級感がある。きっとこの人は食器にもこだわりがあるのだろう。こんな食器に手料理を並べたら私みたいな下手くそが作っても見栄えは良くなるかもしれない。今度,雑貨屋さんで食器でも見ようと思った。

 細長いプレートにはチーズ,ししゃも,ベーコンがそれぞれ二つずつ並んでいた。手作りの燻製に

興味を持った私は目で味わうようにして眺めた。匂いも食欲をそそられるが,燻すとこんなにも芸術的な食べ物に生まれ変わるのかと見入ってしまう。チーズのような端正な形をした食品でも,よくスモークされるところと双でないところがあるらしく,色の変化の仕方に微妙な違いがあった。味にどのような影響があるのだろうか。


「今までなんとなく目にしていましたが,見た目もおもしろいです。いただいても良いですか?」

「もちろん」


チーズをつまみ,口へと運んだ。芳醇な香りが口の中に広がって鼻から抜け出る。適度な弾力で外側は膜を保ったまま中は柔らかい。おいしい。

 バーテンダーはチーズを食べる私をじっと見つめていた。そのことに気付いた途端,頬が赤らむ。


「食べているのを見られると恥ずかしいです」

「失礼しました。お口に合うかなと気になりまして」

「とってもおいしいです。今までで一番かも」


その言葉に嘘はなかった。ただ,バーテンダーの満足げに目尻にしわを寄せたのを見て,ジントニックのおかわりを頼んだ。

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