それからのこと〜生きたいように〜



「ねえ,自分のことが何だか分からないってことある? ある時はご機嫌なのに,その次の瞬間にはいらいらが積もってきていてあっという間に沸点をとうに超えているの。そうしてぐつぐつと煮立っている間にあいてにその熱が移ってどうにも収拾がつかなくなる。そうして相手と私が同じ熱さで向かいあっているのだけれど,だんだんと自分が嫌になってくるの。自分の熱でやられているみたい。知ってる? カメムシって,密封状態に閉じ込めて自分の異臭を臭わせたら自分の臭いで気絶してしまうんだって。それって・・・・・・まるで今の私みたい」


 喉が縮こまって呼吸がしづらい。出来るだけ穏やかに,ユーモアを交えて,笑いながら話をたかった。それでも,真剣な様子で聞いてくれる夏妃の顔を見ながら話をしていると自然と声が小さくなって,涙がこぼれてきた。夏妃は何も言わずに私の話を聞き続け,ダメな私を受け入れてくれた。


 私には欠陥があるのかもしれない。

 今までは,人のことを偉そうに批評したりどうしようもないやつだと嘲ったりもしてきた。

 しかし,気づいてしまった。本当にろくでもないのは私の方だと。

 私は人の心に対して疎すぎた。前の旦那はどうだっただろうか。私は幾度となく傷つけたに違いない。人に完璧を求め,自分の粗は棚に上げて怒りを真っ正面からぶつけにいった。始めは我慢をしてくれていたのだが,次第に受け入れる許容量が近づき,徐々に溢れるようになり,最後にはコップをひっくり返したように激しい音をたてて流れ出ていった。

 「30過ぎてからこんなことに気付かされるなんてね」自分に自信を無くしたという私に,夏妃はあっけらかんとしていった。


「ほんとおめでたいわねえ。そしてまた同じ失敗を繰り返すんだから。でもね,そういうのも含めて人間らしくていいんじゃない? 完璧じゃない自分に気付いて,人を許せるようになって,それでもお互いにイライラするから折り合いをつけていく。その折り合いを見つけるための長い旅が婚活なのよ。大丈夫,きっと私たち,幸せになれる」


自分のことを励ましているかのような夏妃の話しぶりに元気が出た。私ももう少し自分の先の幸せを信じて歩いてみよう。



 お店に入ると,すでに彼は席に着いていた。

 にこやかに私を迎えて,席までエスコートしてくれた。あの日と同じ場所で、あの日と同じ行動。二人がここに集まった理由だけがあの日とは違うことに思い至ると、涙が出そうになる。

 それでも私は、幸せになるためにもけじめを付けなければならない。なんてわがままな女なんだろう。でも、このことはきっと彼の幸せにも繋がる。そうとでも思い込まなければ、自分に対する嫌悪感で押しつぶされそうだ。

 その日に食べた料理はあの日と同じコース料理だった。食べたものも同じ。次の日には思い出せもしなかった料理を,別れ話をするこの日に思い出すとは皮肉なものだ。あの日と違うのは,同じものを飲んでいるのにもかかわらず違う味に感じるこの舌だけだ。

 食事もあらかた終わって,あとはデザートのみとなった段で,グラスに入ったワインを飲み干して彼は言った。


「今日は,何か言いたいことがあるんじゃないの?」


その目を見て,私は何といったらよいのか分からなくなった。

 彼の目にはこの世のものとは思えないほどの綺麗な滴が溢れんばかりにたまっていた。


「話してくれてありがとう。とても楽しい時間を過ごせたよ。辛い思いをさせてごめんね」


 全てを話して少しの罪悪感と吹っ切れた気持ちが矛盾の渦で巻かれている中,彼の配慮でさらに苦しめられた。

 どうしてこんなに優しいのだろう。私は最低な女なのに。いっそのこと罵倒して欲しい。お前はろくでもない女だ。分かれることが出来てせいせいしている。そう突き放してくれたらどれほど楽だろう。

 私には抱えきれないほどの愛情により押しつぶされそうになっていたことを再確認した。愛は大きければ大きい方が良いのだと思っていたけれど,受け入れる方にもキャパがあるのだ。その容量を超えてしまうと,愛を持って相手を潰すことになる。こんな理不尽なことがあるのか。どちらも悪くないのに。

 耐えられなかった。デザートを口にもしないで伝票を持ち,「さよなら,今までありがとう」とだけ言って立ち去った。

 最後は笑顔で別れたかった。だから彼に微笑みを投げかけて会計へと向かう。アンハサウェイのように笑うことが出来ただろうか。ここ数日でどれだけ流したか分からない涙をまた流してしまったが,彼は気付かないふりをしてくれていた。


 夜風に当たりながら帰る。「お客様、お会計はお済みです。お気を付けてお帰りください」と店員に告げられた時は、どこまでもスマートだと思った。きっと今日の結末も察していたに違いない。それでも最後まで尾を引くようなことはしないしさせない。立つ鳥跡を濁さずとは言うが,本当に素敵な人は跡を濁させないのだと知った。その日は素直に彼の優しさに甘えることにした。

 荷物などで困ることはなかった。家具などはどうしても二人で買ったものや好みを合わせたものになるが、私は持って帰るつもりはなかった。家に帰るたびに彼のことを思い出すと胸が痛むし,自分の情けなさを思い出して前に進めそうにもない。「処分の費用は払うから」と伝えると,「自分はこの家具を使い続けたい」と彼は言った。私とは感覚が違うなと思ったが口には出さず「新しい彼女が出来たら買い換えなよ」とだけ笑いながら言った。彼にも幸せになって欲しいが,私との生活の足跡がその足かせにはなって欲しくなかった。男の人って元カノからもらったものを捨てない人もいるって言うけど,新しい彼女は絶対にそのことを嫌がるだろう。とはいえ,それは彼の自由であるのだから口うるさくは言わないことにした。私は私で彼の前から姿を消すこと以外はしない。それぞれ人には人の生き方があるのだから。

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