それからのこと〜せめて最後は〜


 彼は大変几帳面な人間だった。部屋は絶対に汚さないし,ましてやお酒をテーブルの上にこぼしたままにしたり,歯磨き粉を三面鏡に散らすこともなかった。便器の裏もきれいだし,本当にトイレを使っているのかさえ疑わしいほどだった。 

 だけど,几帳面すぎる性格が人に与える精神的負担というものを知ったのもその時だった。

 はじめは良かった。前の旦那とは大違い。ガスの消し忘れや食器は食べたらそのままなんてことはなかったし,何より一日の終わりには大好きな人と一緒にソファでだらだら過ごして新生活に向けて買ったダブルベッドで一緒に眠れることなのだから。

 ほとんど毎晩,私たちは結ばれた。夜の相性は大事。そう思っていた。彼は私が求めるレベルで私を愛してくれた。本番前も優しくいたわってくれるし,本番中も自分本意で行うことは決してなかった。「痛くない?」と確認しながら,表情も見ながらしてくれる。私は満足だった。

 いい人を見つけた。やっぱり私は幸せになるべくして生まれたのだ。そんな私が,この生活に息苦しさを感じる日が来るなんて。私は夢にも思っていなかった。


 まさか,前の旦那を気の毒に思う日が来るとは思わなかった。私は,彼との同棲にうんざりしかけていた。

 彼は几帳面すぎる。始めは良かった。私が食器を洗っているときには昼間に干していた洗濯物を畳んでくれていたし,お風呂でゆっくりしている間には洗った食器を拭きあげて棚に戻してくれていた。今どういう動きをするのが最も効率が良いのかを計算しつくしているようで動きに無駄がなかった。くつろいでいるといっても綺麗な姿勢で本を読むくらいで隙がない。

 ただ,良いことばかりではなかった。

 私は,彼といるとどこか心落ち着かなくなっていることを感じた。食事をしているときも,私が水滴をこぼそうものならすぐにふき取った。几帳面な人だなと思った。ただ,だんだんと私がくつろいでいる時も何度もクイックルワイパーをかけ,粘着質のころころするやつで何度も何度もコロコロしていた。それを見るとこちらも何かをしなければという気持ちにもなるし,動こうとすると「休んでて」と言われるのだが,逆にそれがプレッシャーになりつつあった。

 だんだんと居心地が悪くなっていることに気付いた。もしかしたら,前の旦那も同じように私に息苦しさを感じていたのかも。そこまで考えるようになった。



 まだ何も話もしていないのに,今日が最後の夜になるって分かった。それは私だけではなくて,彼もそうだったのだと思う。

 いつもより雑な状態なまま部屋を後にして,私たちは寝室へと向かった。寝室に向かいながら,物件を探していたころのことを思い出した。

 彼は決してけちけちしたところはないが,基本的には無駄な出費は控える倹約家である。それでも,部屋を決める時にはかなりこだわった。大通りに面したマンションを避けることは絶対条件で,場所で言うと一等地で間取りは寝室とリビングが廊下を挟んで繋がっていないという物件を探した。そこまでこだわると必然的に家賃は跳ね上がり,二人で話していた予算は大幅に超えた。彼はかなり稼ぎがあり,余裕もあったので「家賃のことは気にしすぎずに,気に入ったところに住もう」と主張した。本来であれば私にとってはかなり痛い収入に対する出費になるはずだったが,住むところが決まると手続きは彼が行った。必然的に彼の口座から家賃が引かれることとなったが,割り勘で家賃を出すという当初の予定を彼は頑なに拒み,「おれが気に入った物件にきめたらから」と家賃の3割ほどしか受け取ってくれなかった。

 過ごした時間は少ない家だけど,間違いなくただいまと言える場所だった。素敵な時間だった。残りの時間を意識しながら,ベッドの中で下着姿になったままトイレに行った彼を待った。しばらくすると,寝室の扉が開いた。廊下の光が入ってきてまぶしい。逆光で彼の表情が見えないが,やがて廊下の電気が消えた。彼がベッドへと入ってきた。




 いつもはベッドの中で少しだけ会話をして,その会話を楽しみながら私の体をむさぼってくる彼。今日はそんな落ち着いた時間はなかった。掛け布団をはぐるや否や,私の乳房を掴みながら覆いかぶさってきた。

 こんなのは初めてだった。だけど,どこかで今日はそんな気もしていた。事実,私は彼との別れを心の中では考えていながらも,今日は抱かれるつもりでいた。彼との別れを決めきれない訳でもなく,性欲にまみれているわけでもなく,ただ彼に抱かれると気持ちいい。彼に抱かれている私が好きなのだ。別れてまでそういう関係でいるつもりは毛頭ない。ただ,今は彼に抱いてほしい。

 矛盾した気持ちの中で彼とのことを考えていると,唇が首元を張ってきた。途端に鳥肌が立つ。しかし,これが不快感からくるものではないことは分かっている。私は,求めている。

 彼の顔が喉元から胸へときた時,彼は体を起こして私のパジャマを脱がしに来た。私は抵抗しなかった。あっという間に私の上半身は露になった。

 彼は再び身体を私に重ね合わせ,首元に唇を当てた。右の手で私の左の乳房を揉みしだきながら,そのまま舌を這わせながら顔が降りてくる。身体がぞくぞくする。たまらない。はやくしてほしい。それでもこのままでいたい。

 おかしくなりそうな感覚の中で,グラスが汗をかいて水滴を垂らすようにじわりと瞳に涙が浮かび,こぼれた。私は彼に気付かれないように,手の甲でそれを拭った。彼の顔が膨らみへと降りてくる。左手は腰の方から下半身の方へと降りてくるのを感じた。

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