それからのこと〜最高の夜〜

 彼とこれまで述べてきたが,別に名前を伏せていたわけではない。名前は山本優月。ゆづきと読む。

 この名前を聞いたとき,高校生の頃の同級生が「名前に月が付く女の子ってぜったいかわいいよね」と言っていたことを不意に思い出した。その子の名前は瑞記と言って,「自分も美月って名前でかわいいじゃん」というと「”つ”に濁点が付くのと”す”に濁点が付くのとでは大違いなのだと熱弁を振るっていた」彼女は元気だろうか。有名な東京の事務所のスカウトに声をかけられたと言って上京したままどうなったのか同級生の誰も行方を知らなかった。

 約束をした時間にいかがわしいお店が並んだとおりにある焼肉店についた。その通りではキャッチや店頭に立つバニーガールの格好をした若い女の子が楽しそうに客引きをしていた。もちろん,約束をした店はそういった類の店ではないが,なんだかドキドキした。レクサスのタクシーに乗ったお金持ちそうなおじさんが降りては女の子がいそうとは思えない店に連れの人と入っていく様子から,おそらく高級な飲食店と夜のお店を楽しむ人とが集う場所なのだろう。高級なお店で料理を純粋に楽しんだ後には女の子を楽しむお金持ちもいるに違いない。

 その通りから逃げるように約束のお店に入った。時計を見ると予定した時間の20分前だった。さすがに早すぎたかと思いながらダメもとで店員に予約の時間と彼の名前を告げると,意外なことに「お連れ様は部屋でお待ちなので,ご案内いたします」という丁寧な返事が返ってきた。ずいぶんと早い時間から席についてたらしい。もしかしたら予約の時間も前持ってはやめに取っていて待っていたのかもしれない。考えすぎだろうか。


 その日の食事は最高だった。彼が頼んでくれる食事は面白くて新しい発見と好奇心に満ちるもので楽しかった。しかも私にとっては焼肉のコース料理は初めてだった。ドリンクのお代わりぐらいしか店員を呼ぶことは無いが,その都度料理の進み具合をみて次の料理を運んでくる様子や,塩肉を食べ終わった後の網を交換するタイミングなどは高級店でしか味わえない落ち着いた雰囲気と上質なサービスを感じられた。加えて,彼の話は面白かった。いや,正確には彼のする話が特段面白かったわけではなく,話したい,もっと聞いてほしいという気持ちに始終させられていた。よく,女性は話をしたがる生き物だとか,答えを求めているのではなくただ傾聴してほしいだけなのだとか言われていたがそんなことはないと思っていた。女性だって悩めば答えが欲しいし,解決策をスピーディーに出して最適解を一瞬で導き出す上司になりたいと思っている。ただ,この日はやはり一般的に言われていることは間違っていないと思った。私はこの日,話を聞いてもらって,傾聴してもらって嬉しかったのだ。気持ち良かったのだ。

 その日は美味しく食事を食べて,二軒目もいかずにそのあと何かをしたわけでもなく爽やかに帰った。レストランに行く約束を取り付けてそれで満足だった。私は彼に惹かれていることに気付いた。


 こうして私は今日ここにいる。おしゃれな格好をして素敵な男性と綺麗な夜景を見ながらレストランでディナーを取る。それだけで幸せな気分だ。

 席は窓際で,繁華街のネオンがきらびやかに輝き,まるでこのなんの記念日でもない一日を祝福しているかのようだった。いつもはギラギラしたこの町の光に憂鬱になるのに,誰とみるかでこんなにも捉え方が違うのかと思うと不思議な気持ちになった。

 ステキな時間とともにおしゃれな料理がたくさん運ばれてきた。ゆっくりと,時間をかけて過ごした素敵な時間だったけれど,前妻でウニといくらの乗った茶碗蒸しとメインディッシュでフォアグラを食べたこと以外は何を食べたのかはっきりとは覚えていない。ただ,その日は部屋でとろけるような夜を過ごした。

 彼はそのレストランがあるホテルに部屋を予約していた。始めから一緒に止まる算段だったのかは分からない。ワインをいくらか空けてほろよいの私たちは,一人で使うにしては広すぎる部屋に入った。

 部屋に入ると,後ろから抱きかかえられた。そのまま私たちは倒れこむようにしてベッドへ横になり,重なり合った。

 その夜はたまらなく最高だった。


 いろいろな時間を過ごして,順番を間違えたり間違えなかったりしたこともあったけど私たちは正式に付き合うこととなった。それから一カ月も経たないうちに,こうして彼と今日から同棲することとなった。

 部屋を探すとき,家具を見るときなど,新生活に向けて準備しているときはこれからの二人の生活に対する期待からときめきが溢れていた。それは,観光地で食べる高級なかき氷のように甘くてとろける時間だった。部屋のレイアウトをイメージしながら配色を考えたり,雑貨を見てはああでもないと言い合う。好みが違うことすらも愉快に感じていた。

 私の頭の中は完全にお花畑になっていた。人は忘れる生き物だ。あれだけ過去に痛い目を見たにも関わらず,共同生活の難しさを忘れていた。バラ色の新生活を夢見ていた私の期待は,かき氷が時間と共に溶けていくように徐々に形を崩していった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る