第20話 記憶 ●



ある時、自分でも意識していなかった記憶が突然立ち上がりました。

きっかけは何だったんだろう。

覚えていません。

三十年以上を経て、突然、記憶の釜のふたが開いたんです。

どうやら自分の身と心を守るために暗闇に押し込んで隠していたらしい。

そういう類の記憶です。


記憶が戻って来た時、その記憶が意味するところが分からなくて、しばらく考えていました。

そして、やっと意味が理解できた時。

うううぉー

叫ぶような唸るようなどす黒い声が漏れるのを止めることができませんでした。


今でも思い出すと腹の底に黒い塊が詰まっているような気になります。

正直、不快としか言いようがありません。

胸苦しくもなります。しんどいです。


それでも。

これは回復なのだと思っています。

受け止められるだけの力が出来たからこそ、記憶が戻ったのだと。

心がもう壊れないとゴーサインを出したからこそ、戻ったのだと。

そのために三十年以上の時間が必要だったということでもあります。

それが長いのか短いのか、自分でも分かりません。

物事にもよるし、ひとと比べられるような話でもありません。

ただそういうこともあるというだけの話です。




反対に。

今、母はゆっくりと記憶能力を失いつつあります。

年を重ねれば当たり前のことですが、その進みが思っていたより早いようです。

調べてもらいましたが、これといった医学的な理由は見つかりませんでした。

記憶が維持できないのはそれはそれで困るけれど、程度問題の部分もあります。

今日が何月何日か、何曜日かは分からなくても、日常生活をある程度、自立して営めれば構わない訳です。


本人、短期記憶がダメな自覚があるようで、約束事や大切な用件などはすぐにメモを取るようにしています。

それでも勘違いや思い込みは日常茶飯です。

今の記憶がすぐに失われるのとは対照的に、今まであまり話さなかった古い話を口にすることが増えました。

自分が子供時分の話。

死んだ両親の話。

大好きだった彼女の祖母の話。

あたかも時間を遡る旅をしているかのようです。

そういう時、とても楽しそうに話すので、極力時間を作って話を聞こうとしています。


そんな彼女と話していて近頃思うのは、

別に記憶が正確である必要はないなあ、ということ。

事実を要求される事柄ならともかく、

思い出話までファクトチェックしなくてもいいではないか、と。

聞いていて、あれ? と思うこともないわけではないのですが、誰に迷惑をかけることもない話であれば、当人が幸せな上書きをして記憶保存している方がいいに決まっている。

そんなふうに思うようになったのは、私もずいぶん丸くなったことだと苦笑しています。




この間、色々なことがあったせいで、弟たちともいつになく長話を重ねてきました。

そうすると、その時同じ景色を見ていたにもかかわらず、ずいぶん違う記憶を持っていることに気付かされたり、自分が持っていない記憶を彼らが持っていたりその逆も当然あったり、と多くの発見がありました。

立ち位置で記憶も変わる、なんて当たり前のことでしょうが、改めて照らし合わせてみると、相手との違いが分かって面白いものです。





数ヶ月前、旅立ったひとを見送った時。あの時は通夜の意味を改めて思いました。

あれは故人のためというよりは、大切なひとを失ったひとたちが故人との思い出を皆で共有するためにあるんだなあ、と。

あんなことがあった、こんなこともあった、と記憶をまさぐり夜を徹して話をし、分かち合う。ただそれだけのことに意味がある。そう思いました。

それでずいぶん心が安らいだからです。

各々が持つ記憶を言葉にして共有することで、そのこと自体が癒やしになりました。

コロナのせいで葬儀が簡略化されることが増えているようです。

別に通夜や告別式である必要はありませんが、悲しみを癒やすためには記憶を共有できる場があったほうがいいと思えた体験でした。






どれだけの記憶を携えて、母はこの先の人生を送るのか。

私の曖昧でいい加減な記憶媒体が今後、何を残し、何を消していくのか。

人生という旅路を終える時、皆、幸せな記憶だけが残っているといいなあと、そんなことを思わされたこの週末でした。




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