(4)

 外に出ると空は曇りはじめていた。陽が差し込んだりかけたり。遠くの方から世界が灰色に侵食されはじめている。どっと吹き付けてくる風に、私は思わず顔を伏せた。


「一雨きそうだな」


「夕立だね。夏になれば自然なことさ」


 煩いくらいだった蝉しぐれがすっと止む。世界は静寂に飲み込まれていく。嵐の前の静けさとはよく言ったものだ。


「ねぇ、佐々木」


 丘の頂上に聳える木を見つめながら久瀬がつぶやく。


「どうした?」


「結局、犯人は誰だと思うんだい?」


「それは……」


 犯人は恐らく久瀬と同じ気持ちになっている人物。少女の死を悲しみ、この町のシステムに反している人間だ。だけど、久瀬や五郎じゃない。それじゃ葉月だろうか? 葉月は少女のために丘を花畑にしたりしていた。でも、葉月は医者が原因で少女が死んだと知る機会はあったのだろうか。


 少女の死のトリガーになったのは恐らく医者だ。少女はそれをきっかけにこの町のシステムに疑念を抱いたのだ。それを誰よりも理解していて、条件を満たし、少女の死を悔いているだろう人物が一人いる。


「安山だね」


 そう告げたのは久瀬だった。


「久瀬もそう思うのか?」


「もし自分が連れてきた人物が原因で少女が死んだと気づいたら、僕ならひどく後悔する。そして、この町のあり方に疑問を抱くよ」


「私もそうだと思う」


「けどね。確かに安山は僕らの推理では犯人に最も近い人だ、」


 安易に犯人だと断定しない辺り、久瀬は信頼に値する人間だと私は思った。


「だけど、アリバイがあるよ」


 久瀬の言う通り、安山にはアリバイがあった。それは彼の役割だ。夜に向こうへ行き、タクシーまがいをすること。それを行っている限り、夜に行われている殺人を犯すことは不可能なのだ。


「被害者達が殺されたのは深夜だ。それも逢瀬が終わってから翌朝に見つかるまでの間。つまり三時以降なんだ。安山は出歩くことが禁止される時間より前には家を出て、朝まで帰ってこない」


 森川が殺された時、五郎が「三時には家に戻っていた」と証言してくれたのはこのためだった。そしてそのアリバイは安山にも通じている。


「確か片道五時間だったな」


「そうだよ」久瀬は自転車を押しながらトボトボと丘を下りだす。


「安山が役割をサボっていたとすれば?」


 この町のシステムに疑問を抱いたなら、久瀬のように仕事をサボるんじゃないかと思ったのだ。


「けど、僕は佐々木の家からの帰りに安山の家の前の道を通る。その時には車はなかったよ」


「久瀬が通ることを見越して、車を出していたんじゃないか? 久瀬が家に帰ったあとに戻ってくればいいだけだ」


「だけど、ほら、彼は向こうの朝刊を持ってきてただろ? あれは向こうへ行かないと手に入らないんじゃないかい?」


「久瀬、朝刊っていうのはどれだけ早くても明け方の三時以降にならないと手に入らないんだ」


「それならやっぱり安山のアリバイは成立するんじゃないかい?」


「逆だ。昨日、君は安山の車を朝早くに見たんだろ?」


 久瀬が仕事をサボろうと決めて、診療所で朝ごはんを作ってくれた昨日。久瀬は朝六時頃に安山の車を見ている。それは戻ってきたんじゃなくて、そもそも行っていなかったんじゃないだろうか。


「三時に朝刊を手に入れたとしても、戻ってくるまでに五時間もかかれば、明け方、家にいることは不可能だ。きっと、あの新聞はアリバイ作りのための嘘だったんだ」


「安山が作ったのか?」


「そうかもしれないし、誰かに頼んだのかもしれない」


 安山の行動はこうだ。夜、自宅へ戻る久瀬に自分がいないことを確認させ、外出が禁止になったタイミングを見計らい家に戻る。そこから逢瀬をしている人の家に行き、殺人を犯したんじゃないだろうか。家に侵入した経路は分からないが、誰も出歩かない夜に油断するのは不思議なことじゃない気がする。鍵を開ける手段があったのもしれないし、窓を割って入ったのかもしれない。被害者が酒に酔っていたなら、尚更だ。少なくとも私が現場を見た栗田の家の窓は開いていた。


 殺人を犯した安山は家に戻り、いないはずの時間は家に籠もる。安山の家の周辺には久瀬くらいしか住んでおらず、毎朝役割のため九時頃に通る久瀬にしか見られる心配がないというわけだ。


 そして九時に帰って来ていることがアリバイとなる。


 だけど、誤算があった。昨日の久瀬は役割をサボり、私の朝ごはんを作るために普段と違う行動を取った。通るはずのない朝六時に、久瀬が安山の家の前を通ったのだ。


「新聞の中身が偽物なら、私に殺人の容疑がかかっているっていうのも嘘なのかもしれない」


 安山は私が泥酔して記憶が曖昧になっていることを分かっていたのだろう。


「どうしてわざわざそんなことを?」


「逢瀬の順番はみんな知っていることなんだよな?」


 私の記憶が正しければ、五郎や葉月は誰の逢瀬の日なのか把握していた。


「うん。自明のことだ」


「私を送らなくちゃいけなくなって、計画を阻害されることを嫌ったのかも」


 どんな計画でもいずれはバレると恐れるのが普通だ。安山は、早いうちに計画をやりきりたかったんじゃないだろうか。


「それにだ。本当に安山が向こうに行った時には殺人は起こっていないだろ?」


「確かに、そうだね」


 久瀬は納得して頷いた。私が連れて来られた日は殺人は起こっていない。警官は殺されていないのだ。


 手押しするハンドルのブレーキをわずかにかけながら、私たちはゆっくりと丘を下っていく。ポツポツと降り出した雨粒はとても小さくまだ気にならない程度だった。「だけどね」と久瀬が続ける。


「殺人はその前から起こっていたよね? サボろうって決めたのは少女が死んだ時からのはず。なのに、どうして佐々木を連れてきた日は向こうに行ったんだろう」


 私もそこが疑問だった。少女が死んだ翌日に殺人が起こり、その次の夜に私はこの町に連れて来られた。サボろうと決めた次の日に、安山はどうしてまた仕事をしたのだろう。罪を犯した罪悪感? 心変わり? だけど、私が来た翌日からまた殺人は起こっている。


「そもそも私を連れてくる意味はなんだったんだろう。わざわざ新聞まで用意して……」


 わずかに濡れた向日葵が物悲しそうに灰色に淀んだ空を見つめていた。



☆刑事


「ピンクのタクシーなんてすぐに見つかりそうなんですけどね」


 仮眠を取っていた山川が首にかけていたタオルで目元を拭いながらそう言った。常田の運転する車は本町ほんまちを右折して、法円坂ほうえんざかの方へと向かっていた。


「これで五日連続の空振りだな」


「そもそもコンビニの監視カメラに映っていたあれはタクシーなんですか?」


 山川が手元の資料を眺めながらぼやく。


「見た目はタクシーだな」


「そりゃ見た目はタクシーですよ。でも、大阪中のタクシー会社に当たったそうですけど、どこもあんな車はうちにはないって話です。おまけに、ナンバープレートも登録されていないし」


「だからこそ怪しさは十分にあるだろ」


「そりゃそうですけど」


 山川は少し不満そうにホルダーに入っていた缶コーヒーの残りを煽った。それから言葉を続ける。


「常田さんは、佐々木とタクシーの運転手がグルだって思っているんですか?」


「どうだろうな。佐々木は随分酔っていたってコンビニの店員が証言している」


「佐々木は犯人になれないくらいに酔っていたって言いたいんですか?」


「そうだ」


「そうなると、佐々木はあのと一緒に、タクシーの運転手に殺されたって言うんですか?」


「死体は上がってないだろ?」


「そうですよ。だからみんな重要参考人の佐々木を探しているんです。生きていると信じて」


 山川が呆れたようなため息を漏らした。先輩であるはずのこちらに気を使う様子がないのは彼のいいところだろう、と常田は思う。ボサボサと山川が髪を搔き乱す。


「本部も周辺の監視カメラを隈なく探したらしいですけど、あのタクシーはコンビニを最後に消えたんです。まるで神隠しですよ」


「神隠しか。お前の言うことは当たってるかもな。佐々木は連れて行かれたんだ」


「どこにですか?」


 法円坂は渋滞していた。テールランプの連なる十数台向こうに見える信号は青なのに動く気配がない。高速道路とビルの隙間から差し込む朝陽が車中を照らす。山川の視線がこちらに向いているのが分かった。


「常田さん、随分あのタクシーを知ってるみたいですね」


「そう見えるか?」


 常田が視線を向ければ、山川は真剣な表情をしていた。そんなに真面目な顔をされても困るな、と少し眉根を下げてみる。


「こだわってるのは間違いないですよ。それに、夜にしかあのタクシーを探さないのは、何か知ってることがあるからなんじゃないですか?」


「そうかもな」


「なんですか。その有耶無耶な返事は? 教えて下さいよ。こうして常田さんにちゃんと付き合ってるんですから」


「……あのじいさんには以前に一度だけ会ったことがあるんだ」


「じいさん? タクシーの運転手ですか? それはいつです?」


「十年くらい前だったか。だけど、話しても信じないだろうな」


「なんですか信じないって」


「山川、俺はな……誰かを大人にするために使われたんだ」



 ☆私


 降り出した雨はそれほど強くなる気配はなく、しとしとと降り続いていた。


「傘でも持ってくれば良かった」と私が言えば、「そうだね」と久瀬。


「どちらも天気予報も見てなかったとはな」


「なんだい天気予報って?」


「そのままの意味だ。天気の予報だよ」


 外にはそういう役割の人がいるんだ、と私はどんよりとした空を見つめながら話した。


「外にも役割があるんだね」


「それは決められたものじゃないけど」


「自由なの?」


 久瀬の言葉への返答に困った。結局、「指を差されるのは同じだよ」と答えておく。こちらと向こうの世界、どっちがより良い場所なのか私には分からない。


 濡れた額を片手で拭えば、泥濘んだ地面にタイヤを持っていかれそうになった。グラッとした私を、久瀬は危なかっしい目で見ていた。


「安山はどうやって首を絞めたんだろう。ほらここにはあれがないだろ?」


 この町には縄がないという話だろう。無いものでどうやって殺したというのだ、と久瀬は眉根を下げる。だけど――


「安山は外にいけるじゃないか」


 安山なら縄くらい手に入れられそうだ。少なくとも縄を知っているはずなのだ。私の身の回りの物が失くなった時、安山はベルトの存在に疑問を抱かなかった。


 つまり、この町にあってはいけないものを安山は理解しているんじゃないだろうか。


「確かに外に行ける安山なら手に入れる機会はあったろうね。でもさ佐々木、少女はいつそれを手に入れたのさ? 首を吊るには必要なんだろ?」


 少女がこの町に無いはずの縄を手に入れたというのは確かに不思議だ。重要なのは、最後に訪れた医者じゃないだろうか。


「医者が持ってきた縄状の物を使って、少女は首を吊ったんじゃないか?」


「医者が持っていたもの?」


「何でもいいさ。例えば聴診器だとか」適当に医者が持っていそうなものを答える。


「それは人の首を絞められる強度のものなのかい?」


 実際に触ったこともないので、私自身も聴診器にどれほどの強度があるかは分からなかった。


「必ず聴診器である必要はない。ベルトだってズボンの紐だって何でもいいんだ。医者が来た時に安山が回収し忘れていたんじゃないかな」


「回収し忘れていたなんて都合が良すぎないかい?」


 久瀬の言いたいことは分かる。けど、安山が犯人なら少女の死の原因が自分にあると決定的に思った瞬間があったはずなのだ。


 自分が縄状のものを回収し忘れていて、それを使って少女が自殺してしまった。責任を感じるには十分じゃないだろうか。それに、私のこの仮説が正しければ、最初に少女の死の現場を発見したのは――


「少女が何で首を吊っていたのかは、現場を最初に発見した本人に聞けばいいだけだ。……少女が首を吊っていたっていう現場を発見したのは誰だったんだ?」


「……安山だ」


 一瞬だけ間が空いて久瀬が答えた。ハンドルを握る腕に細い筋が走っている。その上を雨粒が伝い流れていく。


「安山は少女が自殺に使ったものを回収した。それを使って殺人を起こしているんじゃないか」


 これは推理と言える代物ではないが、筋は通っているはずだ。


「安山の動機は僕と同じなんだよね」


「『この町のシステムに疑問を抱かなかった町人への警告』と言ったところなのかもしれない」


 感傷的に考えるなら、この殺人事件を機に町の人に少しでも疑問を抱いて欲しかったんじゃないだろうか。だけど、これはそうであって欲しいという私の願いでもあった。


 雨脚が少し強くなり始めたタイミングで、商店街が近づいてきた。「君の家までは持ちそうにないから、少し雨宿りしていこうか」と久瀬が首で指し示す。


「そうだな」


 商店街に入ったところで、激しい雷が鳴り響いた。鈍い地響きが足元を揺さぶる。同時にザワザワと人の声が聞こえてきた。


「何かあったのか?」


「まさか殺人じゃないだろうな……」


 私たちは自転車を適当な店先に停めて、騒ぎの方へと向かった。

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