六章
(1)
翌朝、早い時間に久瀬はやって来た。すでに朝食の準備をはじめていた私に「なんだ、僕が作るつもりだったのに」と久瀬はがっかりした様子で唇を尖らせた。
「昨日、作って貰ったから」
「その前は君に作らせてばかりだったろう?」
吹きこぼれそうになった鍋の火を止めて、「それじゃ、配膳を手伝ってくれるか?」と私はお玉を手渡す。
「もちろんだとも」
食事中は、事件の話にはならなかった。サイクリングをしながら話そうと決めていたからかもしれない。そもそも事件に関して気になることがあれば、警官に伝えるべきだろうけど。あの警官は信用に値しない。少なくとも、私と久瀬が話をして、有益かどうか判断してからでも遅くないはずだ。
食事を終えた私たちは、約束通りサイクリングに向かう準備を始めた。
「どこに向かう?」自転車にまたがった久瀬がそう訊ねてきた。
「どこでも構わないよ」
「それじゃ、畑を迂回して丘の上まで行こうか」
久瀬が示した道順は、以前に私が逃亡を図った道のりを通り、須崎が演説していた広場を回って、遠回りで丘の上まで向かうというものだった。丘を登るのは大変そうだが、幸運なことに自転車はギアチェンジができる仕組みになっている。想像以上の厳しさはないように思えた。
ペダルを漕ぎ出せば、タイヤが細かな石を弾く。バラック前の砂利道からコンビニ前の舗装された道、さらに土の畑道へと抜けて、私たちはスピードを上げた。
爽やかな風が襟元を抜けていく。その風がわずかに湿っているのは愛嬌だ。夏らしい空気で肺を満たしながら、重たくなっていく足をひたすらに動かす。やがて、スピードに乗った自転車のペダルはクッと軽なった。ギアを変えて更に漕ぐ。道の先に誰もいないことを確認して私は先を行く久瀬の横に並んだ。
「気持ちいいな」
「うん。爽快だ。こういう気分は久しぶりだよ」
久瀬は風の抵抗を弱めるためか、体を屈めた。「とても懐かしい気分だよ」すると、すっと久瀬の自転車が前に出る。
「昔は一人でこうやっていたのか?」少し距離が出来たために私は少し大きな声を出す。
「ううん」
声が風で流されたため、うまく言葉は聞き取れなかったが、久瀬がかぶりを振ったのを見て、否定したんだと分かった。私は漕ぐスピードを更に上げて、もう一度、久瀬に追いつく。
「それじゃ、誰とサイクリングしてたんだ?」
ペダルを漕ぎながら、久瀬の視線は遠い空を見つめていた。真っ直ぐに伸びる道の先で、山の頂上と青い空が重なっている。その間から滲み出るように雲が膨らみはじめていた。
答えを急かすつもりはなかったけど、私は空咳を一つ飛ばした。ちょうど広場に差し掛かったのだ。「ここを曲がるんだろ?」と、私はブレーキを入れる。
「あぁ」
広場の角を曲がり、背の高い雑草が続く道に出た。並んで通れる幅ではなかったため、一列になり、私たちはスピードを落とす。風がそよぐたび青い草の匂いが鼻腔を刺激した。
「サイクリングは友達と一緒にしてたんだ」
前を行く久瀬がそう呟いた。
「友達か」
「うん。昔は、みんな友達がいたはずなんだよ」
とても切ない声だった。雑草が風にうねり、まるでトンネルのように私たちの頭上を覆う。草の影が奇妙な模様を身体に落とす。草のトンネルの中はひんやりとしていて、薄暗い。
「それは風太にとっての楓みたいな人だったのか」
「たぶんそうだ」
なんとなくどういう存在なのかが分かった気がした。「だけど、」と久瀬が言葉を続ける。
「みんな忘れてしまってるんだ」
「でも久瀬は覚えていたんだろ?」
「ううん。忘れていたさ。思い出したのは一昨日の晩、君にサボるように言われたあとさ」
ハンドルを掴んでいた右手が、彼の胸元に伸びた。ぐっとシャツを掴んでいるらしい。胸の痛みを堪えるような低い声が聞こえて、私はかける言葉を失ってしまう。
自転車が雑草のトンネルを抜けた。全身に太陽の陽が降り注ぐ。すっかり忘れていた夏の暑さで体中にじんわり汗が滲み、吹き抜けてきた風で体がすっと涼しくなった。
正面には大きな川が広がっていた。そこに道幅の狭いレンガの橋がかかっている。私たちはスピードを緩め、橋の前で自転車から降りた。手で押しながら橋を渡っていく。
「ここで葉月は花を摘んでいたんだ」
「葉月が花を?」
雑草の生い茂った河川敷には、向日葵や紫陽花、それにトケイソウの花が咲いていた。どれも丘の上に咲いていたものと同じだ。
「少女が花を好きだったから。葉月は、ここで花を摘んで植え替えていたんだ。季節が過ぎれば、種を採って丘に撒いたりして。そうしてあの丘の花畑は出来上がったんだよ」
「あの丘を葉月が作ったのか」
「もちろん、自生していたものもあるよ。けど、整えたのは葉月だ」
橋を渡りきり、再び自転車に跨った。ここからは緩やかな坂が続く。きっと葉月はこの道を通って、少女のために花を持っていったのだろう。
「久瀬、そろそろ本題に入ろうか?」
「そうだね」
「昨日、言ってた気がかりって何なんだ?」
久瀬は涼しい顔で自転車を漕ぎながら、視線をこちらに向けた。「前を向かないと危ないぞ」と私が注意すると、「そうだね」と顔を正面へ戻す。
「殺された人たちがいたろ」
「あぁ。私がここに来てから三人。その前に一人だっけ?」
「うん。気になるっていうのは、そのことなんだ」
久瀬は握っていたハンドルに力をこめて、ぐっと腰を浮かした。そのまま立ち漕ぎで、坂を登っていく。私も同じように立ち漕ぎをして、そのあとを追った。
「殺された人たちはみんな、僕が夕方の仕事で逢瀬の場を作った人たちなんだ」
「だったら――」
「でもね」
私の言葉は、久瀬のそんな台詞にかき消される。こちらの質問は容易に想像できると言いたげに続けた。
「逢瀬の女性は、毎回同じ人だったわけじゃないよ。それに彼女たちは人を殺すような人たちじゃない」
私はその遊女たちのことを何も知らない。たった一度、夜闇の中で森川とともに消えていったのを見ただけだ。久瀬がそんな人達じゃないと言うなら、それを信じるしかない。それに、この町に縄が無いというのに女性の力で大の男の首を絞めて殺せるとも思えなかった。
「けど、彼女たちを疑うのも分かるよ。最後に会っているのが彼女たちだ。それに夜は外出禁止だからね」
最後に会ったからというだけで疑うのは確かに見当違いだ。
「けど、久瀬も外には出られないって言ってたろ。だから夕方の仕事なんだろ。……彼女たちによる殺害を否定するなら、逢瀬の場をセッティングしたことと殺人は無関係なんじゃないか?」
おそらく久瀬が言いたいのは、夜な夜な出歩いていたタイミングで殺しが行われただとか、留守になった隙きに家に侵入して帰ってきたところを殺したということだろう。気がかりは、自分の仕事が犯行に使われたんじゃないかということだろう。だけど、大前提に夜は外に出てはいけいルールがある。もちろん、殺人犯がそれを守っていたかは疑問だが。それにだ。
「殺人が起きていない日だってあっただろ?」
「そうだね」
「なら、やっぱり無関係なんじゃないか?」
「けど、あれは葉月が逢瀬を断った夜だ」
私は葉月と五郎の二人が屋台で話していたことを思い出した。逢瀬を行わなかったから葉月は殺されなかった。面白い推理だと思った。だけど、「それだけじゃなかっただろう?」と私は久瀬を追求する。
「そうだね……君がこの町に来た夜も起きていない」
「その夜は誰か逢瀬を行ったのか?」
「うん。あの夜はあの警官だったかな」
必ず久瀬が逢瀬をセッティングした時に起きているとすれば、辻褄は合うが、例外があるのはしっくり来ない。もちろん、犯人は警官を殺したくなかっただけかもしれないが。
「でも今日は起きていないと思うんだ」
「どうして?」
「須崎が殺されればもっと騒ぎになると思う」
なるほど、と思った。あれだけ人気のある政治家が殺されれば、騒ぎになるのは必須だ。
例外は警官の一件、久瀬の言う法則に当てはまるのは六件だ。その内、殺人が実際に行われたのは四件。起きなかったのは、葉月と須崎の日の二件。本人の希望と久瀬のサボり、理由は違えど両者とも逢瀬は行われていない。「僕は十分、因果関係があると思うんだ」と久瀬は語気を強める。
久瀬を囃し立てているのは、「自分が逢瀬をセッティングしなければ、彼らは殺されなかったはずだ」という罪悪感だろうか。そういう思いがあるからサボると言い出したのかもしれない。事実、久瀬が逢瀬をセッティングしなかった日は殺人が起きていないのだ。
ペダルを漕ぐ久瀬の足が止まった。自転車は緩やかになった勾配の途中でゆっくりと停車する。
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