(4)
「あの人は持っていないだろうし、あの人もないだろうなぁ」
私の知らない名前を久瀬は一人呟いていた。次の当てを探しながら、トボトボと畑道を歩いていく。前を行く彼はにわかに立ち止まり、踵を返した。
「なぁ佐々木は誰が持っていると思う?」
「私がこの町で知っているのは十人もいないんだが」
「それもそうか」
残念がる様子もなく、納得して久瀬はまた歩き出した。歩いている方角は商店街とは反対側だ。「当てはないようだけど、どこに向かってるんだ?」私がそう訊ねると、彼は首だけをこちら捻って答えた。
「一旦うちに帰ろうと思って」
「君のうちか?」
「そうだよ」
そう言われて私は立ち止まる。帰るなら帰ると始めから言ってほしかった。うかうかと着いて来てしまったじゃないか。
「どうして立ち止まるんだい?」久瀬が不思議そうに小首を傾げる。
「君こそ帰るなら先に言ってくれよ。久瀬がうちに帰るなら私はあの診療所へ帰るよ」
てっきり自転車探しが続いているものだと思っていたのに。それはこちらの一方的な思い込みだったらしい。なんとなく裏切られた気分になる。
「あーそういうことか」
大袈裟に口を開き、彼は手を鳴らした。「気を使ってくれてるんだね!」少しずれているが、そういう思いが私にないわけじゃないのは確かだ。このまま着いて行ってぬけぬけと家に上がるつもりはない。
「自転車探しはもちろん続けているよ。けど、もう昼前だ。うちに帰って腹ごしらえをしようと思ってね」
「だったら私も自分の家で済ませるよ」
何日もあそこに住み着いてしまって、あれを自分の家だと口走ってしまう。別に居心地が良いわけでもないけれど。
「いやいや、ここまで来たんだからうちで食べていきなよ。食材はないからインスタントになるけどね」
――ここまで来たなら。つまり、始めはそのつもりではなかった、と彼は自供したのだ。私はため息をつきながら、歩いてきた畑道を振り返った。商店街が随分遠くに見える。私のうちまではかなり距離があるはずだ。歩いて三十分くらいだろうか「自転車探しは続いてるんだよな?」そう聞けば「腹が減っては戦はできぬだよ」と久瀬は胸を張った。
わざわざ戻ってまた集合するのも面倒な話だ。「分かったよ。それじゃ久瀬のうちでお昼をごちそうになる」そう言うと、久瀬は口端を緩めた。
「よし、決まりだ! 食事を取ったら、ここから丘の方に向かう道にある家を当たってみよう」
商店街の方から東に視線をそらせば小高い丘が見えていた。こうして離れて見てみると綺麗な黄色に縁取られているのがよく分かる。向日葵だ。その頂上付近に小さく家と一本の木が見えた。その回りを紫と白が彩っている。その奥に聳える山から夏らしくはない叢雲が伸びてきていた。
☆葉月
腕を無理やり引っ張られる。引きちぎれるんじゃないか、と葉月は叫び声を上げた。むしり取るように靴を脱がされ、廊下を引きずられる形で部屋へと連れて行かれる。
「やかましい男だ」
畳の床に顔を叩きつけられて、頭上からそんな言葉が聴こえてきた。声の主は須崎だ。無理やり顔を持ち上げようとすれば、スーツ姿の男の手に力が込められた。
「僕は何もしていない」
「何も? 嘘を付くな。君は覗いていたじゃないか」
頬に畳縁が食い込む。「どうしますか?」と葉月を押さえるスーツ姿の男が低い声を出した。
「そうだな。そろそろ痛い目を見てもらわないと困るな」
今度は襟を捕まれ持ち上げられた。それをチャンスと暴れようとした葉月の腹に、男の拳が一発入った。
「暴れるな」
ぐったりとする体を抱えられて、須崎の前に立たされた。須崎の手が頬を掴む。無理やり顔を持ち上げられ、顔を近づけられた。見た目は若々しいが近づくと小じわが見える。しっかりと歳を重ねてきた肌だった。
「何度も何度も来ていたみたいだが、黙っていれば好き勝手。まともに働くこともせずに、のうのうと生きて。恥ずかしくはないのか。君はいくつだ?」
「十九だよ……」
「そうか。あいつと同じ歳だったな」
あいつと言うのは、須崎の奥さんのことだろう、と葉月は思った。奥さんをあいつと呼ぶのはそれほど珍しいことではないと思うが、その言い方がひどく冷酷で人間扱いしていないような言い回しに感じられた。それに、今、目の前にいる須崎は普段と雰囲気が違う。
「ずっとあいつのことが好きだったんだって?」
いつも温厚そうにしている須崎の顔が、今日は冷たく恐ろしい。「そんなことは……」と葉月が否定しようとすれば、須崎は口端を緩めてふっと息を吐いた。
「その話はこの町では有名な話だ。何も隠そうとしなくていいさ」
須崎に手を離されて、顔は力なくガクッと落ちた。須崎は腕を組み、着流しの袖に手を入れる。見下すような視線がこちらに向いているのが分かった。
「僕が彼女を好きだったらなんだって言うのさ」
「別に構いやしないさ。君がどんな感情を抱いているかは私には関係のない話だ」
「だったらもういいだろう?」
「人の妻をくどいくらいに付け回して、覗きをした挙げ句、もういいだろうなんて虫が良すぎるとは思わないか?」
訊ねられた問いに、葉月は答えることが出来なかった。須崎が言ってることは間違っていない。人の家を勝手に覗いていたのだから、腹を立てられて当然だ。だけど、須崎の苛立ちはもっと別のところにあるようだった。
うつむいた葉月を威嚇するように、須崎は足袋を履いた足で畳を強く踏みつけた。
「君のような愚かな人間は見ているだけで腹が立つんだ。働きもせず、役割をこなさず。大人になれなかった落ちこぼれが。だいたい、君たちはどうしてまともに生きて行けないんだ。五郎のやつもそうだ。いつまでもしょうもない物を作り続けて。何の意味がある? 早く諦めて、役割を遂行しろ。君たちはそれくらいでしか生きている価値を見いだせないんだ」
まくしたてられた言葉は、葉月がこれまで何度も言われ続けてきた言葉たちだった。自分でも分かっている。こんなことをいつまでも続けていても無意味なことくらい。
「何だその顔は? その顔に虫唾が走るんだ」
腹部に衝撃が走った。須崎のケリが腹に入ったらしい。声を出せないまま、葉月はその場に倒れ込もうとするが、男に支えられ膝から崩れ落ちただけに留まった。
「さっきも言ったが、そろそろひどい目に合わなくちゃ君は分かってくれないらしい。ただ、いくら私でも、過度に暴力を振るえば罪に問われる。私だってただの政治家に過ぎないからね」
そう言って、須崎は大きな声で奥さんを呼び寄せた。すぐに障子が開いて彼女が現れる。
「なんですか……?」
彼女はこちらを見て、すぐに視線をそらした。彼女が視線をそらしたのは、懐かしい顔がいたせいだろうか。それともストーカーがやって来ているからだろうか。はたまた流れている血を見たくなかったからだろうか。
そんなことを考えながら、葉月はふいに彼女の名前を呟きそうになる。その一文字目の形に唇が歪んだ瞬間、男の手がキツく首を締め上げてきた。
「勝手に話そうとするなよ。その男は私の言うことは何でも聞くんだ。殺しとまではいかないが、人を死なない程度に痛めつけることは厭わない」
須崎はそう吐き捨てながら、彼女の手を掴んだ。「きゃっ」と短い悲鳴を上げて、バランスを崩しながら彼女は須崎の胸の中へ倒れ込む。
嫌らしく伸びた須崎の舌が、彼女の柔い頬を舐めあげた。堪えるように声を出しながら、彼女の華奢な手が須崎の着流しを掴む。
「何をしてるんだよ」
「何を? 私が自分の妻に何をしても文句はないだろう?」
そう言って、須崎は彼女の頬を掴み上げ、強引に口唇を重ねた。その光景を見たくなくて、葉月は咄嗟に目を閉じる。こちらを行動に気づいたのか、「目を閉じるんじゃない」と男に顔を掴まれ、無理やり目をこじ開けさせられた。
視界に飛び込んできたのは、須崎の手が彼女の着物の帯に伸びる瞬間だった。引きちぎるように帯をほどき、その場に彼女を押し倒す。白く柔らかい彼女の肌が露わになった。こちらに見せつけるように、須崎の口元がいやらしく乳房に吸い付く。
彼女の甲高い声が部屋に響いた。何度かその身体を舐めた後、須崎の顔がゆっくりと下がっていった。なめらかな彼女の白い肌を、汚れた須崎の舌が通るたびに鼓膜に彼女の声が張り付いてくる。振り払おうとしても、その声は脳の奥底へと鋭さを持って侵入してきた。
自分の服を脱ぎながら、須崎は彼女の腰元へ手を添えた。彼女の足を無理やり開き、そこへ自分の腰を何度も押し付ける。
視界は涙で滲んでいた。彼女の喘ぎ声が部屋に響くたび、涙が溢れ出し、ぼやけていく景色が少しだけ鮮明になった。
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