(2)
朝食を取り、私たちは町へ出た。
「誰か持っている人に心当たりはないか?」そう訊ねると、久瀬は「うーん」と唸るような声を出した。
「須崎とかなら持ってるかもしれない」
「須崎が?」
車なら分かるが、あまり自転車を持っている印象はない。
「ほら選挙のために、自転車に乗って町内を周ってるんだ。後ろのところに名前を書いた旗を指してね」
「なるほど」
自転車はあくまで選挙の道具だというわけだ。「それじゃ、須崎の家に行ってみよう」と私たちは須崎の家を目指すことにした。
*
須崎の家につくと、塀に空いた隙間から葉月が中を覗き込んでいるのを見つけた。声をかけるべきか、と私が一瞬躊躇している間に、久瀬が「やぁ」と声をかける。
「わっ」と葉月が驚いたのは無理もなく、その拍子に彼は塀の淵に沿った溝に足を滑らせた。
「大丈夫か?」
そう訊ねた私の方を見て、「なんだ君たちか」と葉月は安堵の表情を浮かべた。
「擦りむいたんじゃないか?」
溝から足を抜いた葉月に、久瀬が心配そうに屈んで声をかける。誰のせいだと思っているのか。久瀬は、「じっとしていて」と葉月のズボンをめくりあげた。
「ほら、やっぱり擦りむいている」
コンクリートの角でひっかいてしまったのだろう。葉月の脹脛に、真っ赤な縦筋が走っていた。じんわりと血が滲んでいる。
「消毒液は無いからこれで我慢してくれ」
ポケットから絆創膏を取り出し、患部を抑えた。肌色の絆創膏が真っ赤に染まっていく。
「ありがとう」
「それで、葉月はここで何してたんだ?」
責めるつもりはなかったが、バツ悪そうに葉月の視線が逸らされる。患部を指でなぞりながら、もぞもぞと言葉を詰まらせた。
「それは……」
私の眉間には無意識に皺が寄っていた。もしかして、と思ったのだ。葉月はこの家に侵入して殺人を犯そうとしていたんじゃないだろうか。そんな疑いの目を私はしていたらしい。
「おかしなことを考えてるんじゃないだろうね」
問い詰めたのは久瀬だ。その言葉こそ使わなかったが、君は殺しをするつもりじゃないだろうな、という警告が込められていた。
「違う……!」葉月は声を震えさせる。「そんなつもりはないよ」
その場にうずくまって、首を横に振った。まるで、駄々をこねられているみたいだ。
「それじゃ、どうして覗き込んだんだよ?」
「……見てたんだ」
「それは分かってるよ!」
叱りつけるみたいに久瀬は語気を強めた。私は「まぁまぁ」となだめて、屈んで葉月と目線を合わせた。
「葉月は何を見てたんだ?」
「彼女だよ」
「彼女?」と呟きながら、私は須崎の奥さんのことを思い出す。「確か、好きなんだっけ?」
「どうして佐々木が知ってるんだよ」
うっかりしていた。思わず口走ってしまったが、この話は葉月から聞いたわけじゃなかった。
「すまない。久瀬から聞いていたんだ」
怒るかと思ったが、葉月は「そうか」と肩を落としただけだった。「本当にただ見ていただけなんだ」とも続ける。
覗き見ていることは犯罪まがいだけど、ここでのルールがどうだかは知らない。それに葉月が覗いていた理由は、なんとなく無垢な理由な気がした。
「いつも覗いていたのかい?」久瀬は背伸びをして塀の向こうを覗き込んだ。
「いつもではないさ」
葉月は顔をあげて、少しだけ顔をしかめる。
「たまに?」
「あぁ……」
「あの人はあまり町に出てこないから」
「寂しくて会いたくなるのは分かるよ。だけど、彼女はもう須崎の奥さんなんだ」
コツン、と久瀬の革靴がアスファルトを叩いた。須崎の家の周りは綺麗に道が舗装されている。視線を落とした久瀬をにらみつけるように、葉月は眼光を鋭くして言葉を吐き捨てた。
「だって今日は須崎の番だろ?」
「須崎の番?」私は首を傾げる。
「そうだ」
「何の順番が回ってきたんだ?」
「それは……あれさ」
葉月は言葉を濁す。何か言いづらいことなんだろうか。葉月の頬は、すっかり恥ずかしさで滲んでいた。ごもごもと薄い唇を動かしながら、ボソボソと言葉をこぼす。
「須崎には奥さんがいるじゃないか」
投げ捨てられた言葉を私が拾おうとすると、すぐに次の言葉が飛んできた。
「それなのに、別の人とやるだなんて」
「待って、葉月が何を言っているのか、私にはさっぱり分からないんだけど」
彼女がいるのにやる、と言うと大体のことは想像出来る。けど、須崎の順番っていうのは? 私の疑問に答えてくれたのは久瀬だった。
「それが僕の夕方の仕事なんだよ」
「久瀬の仕事だって?」
「そうさ。夜の逢瀬のお手伝いさ。この町でそれは無いことになってるからね。おおっぴらには言えないけど」
「それじゃ何か、須崎は奥さんがいるというのに、久瀬にその逢瀬を依頼してきたっていうのか?」
「依頼っていうのは少し違うかな。別に彼の方から発注を受けたわけじゃない。順番に回ってくるんだよ」
「逢瀬は順番制だっていうのか?」
「そうだ」
実に奇妙な風習だ。夜中に出歩いちゃいけないのはこの為なんだろう。
「そうか。ここに来た最初の夜、森川を見たんだ。女性と歩いていた。あれは二人の言う逢瀬だったんだな」
「そうだね」久瀬が頷く。それからこちらの考えを読み取ったように、言い訳がましく言葉を続けた。
「夜に出歩いちゃいけないルールは僕も同じだよ。手はずは夕方のうちにしてあるんだ。夜、僕は外には出られない」
それはアリバイのための言葉だろう、と思った。僕は夜には出られない。だから犯人ではないと。
「逢瀬を行う二人だけが夜の町に出られるのか?」
「そうだよ」
ならば、森川が殺されたのはその後なのだ。なのに、警官はその女性ではなく私を疑った。真っ先に疑われるべきは最後に会った女性だろうに。それを警官も久瀬も知っている。それにだ。
「なぁ、久瀬」
私にはこの町に来てからずっと思っていることがあった。この町は男性が多い。もちろん女性が全くいないわけじゃないが、町を行く人、須崎の演説を聞いていた人、圧倒的に男性の方が多いのだ。そしてここに来て、夜に働く女性の存在が明るみになった。あの女性たちはどこの誰なのか。私がそれを問えば、久瀬はあっさりと答えてくれた。
「彼女たちは、それが仕事なんだよ」
「夜に働くから昼間は姿を現さないってことか」
「そうだよ。この町では性行為は無いことになっているから。暗黙の了解なんだ」
「一体なんのために?」
久瀬の話を聞きながら、私は少女には両親がいないと言っていたことを思い出していた。それは両親が誰であるかを明確にしていない、ということなんじゃないだろうか。きっと、誰が父親なのか分からないのだ。だったら、始めからいないことにしてしまおう。そう決めたんじゃないだろうか。この町の人がみんなそうなんだとしたら。思わず、背すじに冷たいものが走る。
「きっと、不都合なものを隠すためだ」
久瀬の答えは私の想像が正しいと告げていた。その言葉に反応したのは葉月だった。
「久瀬、そんなこと言っていいのか」
「あぁ……ずっと心の隅では疑問に思っていたことだったんだ。少なくとも、葉月もそうなんだろう?」
「それは……」
「一昨日は葉月の番だった。けど、来なかったじゃないか」
五郎と葉月がその話をしているところに私は偶然居合わせていた。葉月は須崎の奥さんのことが好きで、だから逢瀬には向かわなかったのだろう。なんともピュアな話だ。
「僕は……やっぱり彼女のことが……!」
葉月の声が大きくなったせいだろう。屋敷の中から怒号が聞こえて来た。声の主は須崎だ。
「またあいつだ!」
屋敷の中からスーツを来た大柄な男たちが出てきて、一瞬のうちに葉月を捕らえた。きっと須崎の家のボディーガードに違いない。葉月は抵抗する間もなく、屋敷の中へと引っ張っていかれる。私はまた呆然としてその光景を見ていることしか出来なかった。
「葉月の選択は間違っていないと思う。それを落ちこぼれだなんて……もちろん覗いていたことはいけないことだけど」
葉月がいなくなった道の上で、久瀬が声を漏らした。
「そうだな。私もそう思う」
葉月は屋敷の中でどんなことをされるのだろう。それを制限する決まりが無いことは、真っ青になった久瀬の顔を見て分かった。
「……行こうか佐々木」
「あぁ……でも、自転車のことを須崎に聞かなくていいのか?」
「思えば、須崎のところに行くと絵本を渡されると思うんだ」
「あぁ確かに」
サボろうとしていたことをすっかり忘れていた。
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