五章

(1)

 ガサガサ、と物音がして私は目を覚ました。外の気温が低いせいだろう。空調の効いた室内はやけに寒く感じた。薄い夏用の布団を手繰り寄せ、物音のする方へ視線を向ける。


「やぁおはよう」


 呑気な声を出し、久瀬が笑みを浮かべていた。あくびを噛み殺しながら「おはよう」と私は返す。


「もうそんな時間か?」


 久瀬は朝早くには来ないので、昼前くらいなのだろう、と私は思った。だけど、久瀬はかぶりを振る。


「いいや、まだ夜が明けたところだよ。悪いね、起こしちゃったかな」


「いいや。そういうわけじゃないと思う」


 物音で目覚めたのは確かだったが、寒さのせいもあった。ベッドの頭の辺りに置いていたエアコンのリモコンを手に取り、温度を上げる。


「久瀬は何をやっているんだ?」


 私と会話をしている彼は、どうしてかキッチンに立っていた。どういうわけか彼の手には包丁が握られている。それにいつものスーツではなくラフな格好をしていた。


「何って料理に決まってるじゃないか。キッチンに立つ理由なんてそれ以外考えられないよ。佐々木は変わってるね」


 彼に変わっていると言われる筋合いは無いのだけど。「君は料理が出来ないのかと思った」と私が言うと、


「多少は出来なきゃ普段どうしてると思ってるのさ」と返された。


 確かにそうかもしれないが。外食で済ましている可能性だってあるだろうに。


「それじゃ、わざわざ私に作らせなくても良かったんじゃないか」


「君が作れるって言ったんじゃないか。それに僕はそれほど料理の腕に自信があるわけじゃない」


「私だってそうだ」


「でも、佐々木の料理はそれなりに美味しかったよ」


 久瀬は恥じらいもなく、そう言った。少しつり上がった目元が柔らかく緩む。彼は人たらしなんだろう、と思った。この数日、付き合ってきてようやく気づいたことだけど。言動に悪気が無い上に、彼と話をしていると力が抜ける。そういう空気感を持った羨ましい人は確かにいるのだ。


「それじゃどうして今日は君がそこに立ってるんだ?」


 久瀬の手に握られていたものは、包丁からお玉に持ち変わっていた。その手を腰元に当てて、えっへんと彼は胸を張る。


「たまには外から来た人のために作ってあげようと思ったのさ。だって、ちょっとばかり気持ちが変わったからね」


 そりゃ作らないつもりの人が、手料理を振る舞おうだなんて思うんだから、気持ちの変化があったんだろう。ほんわりと味噌の良い香りと磯の香りが鼻をかすめた。久瀬は軽いステップで踵を返すと、鍋の中をお玉でかき混ぜ始めた。シンクの上に並べられた皿の上には、焼き鮭と卵焼きが盛り付けられている。


 換気扇の音が煩いくらいに部屋に響いていた。カーテンのない窓から差し込む朝陽が眩しく目を細めていると、久瀬がぼそっと呟いた。


「サボって見ようと思うんだ」


 コトン、とお玉がアルミ製の鍋の淵を叩く。力の抜けた久瀬の肩はしんなりと下がっていた。 


「サボる?」

 

「サボタージュだよ」


「言葉の意味は分かってるけど」


 わざわざ教えてくれるのは、タクシーや縄が分からなかった仕返しだろうか。彼からはそういう嫌味なニュアンスは感じないが。こちらを向いた顔は少しだけ悪戯っぽくなっていた。私が首を傾げているのは、「仕事はしなくちゃいけない決まりなんじゃないのか」ということだ。


「そうだけど。昨日、佐々木が言ってたじゃないか」


「あぁ……」


 確かに「その仕事は意味のあることなのか」、と私は言った。弔いの思いがなければ、少女の死を侮蔑する行為だと私は思ったのだ。けど、だ。


「サボれば罰則や何かがあるんじゃないのか?」


「そういう決まりはないね」久瀬は肩を竦ませる。鍋が沸き立ったのか、「おっと」と声を出して、コンロの火を止めた。


「そうなのか?」


「だって、決まりを必ずしも遂行しなくちゃいけないなら、佐々木は罰を受けなくちゃいけない。佐々木の役割は、少女に会うことだったんだから」


「それは理不尽だなぁ」


「だろ? それに四十度の熱が出たりしたら、さすがにみんな休むさ。その時に、咎められるようなことはない」


「それとサボりは別だと思うが」


「そうなのかい?」


「だってだな……」


 そう言いかけて、私の言葉を詰まらせる。本当にいけないことなんだろうか。少なくとも昨日、久瀬に向かって「意味の無いことだ」と言った時の私はサボったって構いやしないと思っていた。


 久瀬にどんな心境の変化があったのか分からないが、縛られていたことから一度抜け出してみるというのは間違った策じゃないと思う。そう思うのはどうしてだろうか。以前に誰かにそう言われた気がする。……誰だったかは思い出せないが。


 それに、多少他人に迷惑をかけるかもしれないけど、ルールに無いからと言って横暴を繰り返していた警官よりかは幾分もマシだ。たまには有給を取ったってバチは当たらないはずなのだ。


「いいや。良いんじゃないか」


 私は面倒くさい言葉を色々と飲み込みそう答えた。綺麗に整えられた久瀬の眉にぐっと力が込められる。  


「僕はサボるよ。少女に絵本やおもちゃを届けるのも、夕方の仕事もだ」


「ん? 私の面倒を見るというのは?」


「それは……だって佐々木を目の前にしては言えないじゃないか」


 そもそもあまり面倒を見られていたつもりは無いのだけど。食材を買ってきてくれていたが、作っていたのは私だし。部屋だって前回の医者の時のお下がりだ。私の面倒に関しては始めからサボリ気味じゃなかっただろうか。


 それでも久瀬には遠慮や気遣いというものが多少はあったらしい。私は溜息まじりに言う。


「私の面倒もサボって構わないよ。今日は対等な関係だ」


「対等か。それって友達ってことかい?」


「どうだろう?」


「そうだと嬉しいな。久しく友達がいないから」


 少し下がった久瀬の視線は、シンクの方へそれる。チカチカと点滅するキッチン上の蛍光灯がステンレスに反射した。


「そうか。それじゃ友達でいこうか」


 もしかすると、この町では友達というものは無いことになっているのかもしれない。始めから存在しないものと無いことになっているもの。そういうものがこの町では混在しているらしい。縄やスマホなんかははじめからなくて、友達や性行為は無いものとして共通意識を持っているようだ。


「友達って何をするものなんだろうか」久瀬がお椀に味噌汁を装いながら言う。


「話したり趣味なんかを一緒にするんじゃないか」


「趣味か」


「久瀬は何か趣味はあるのか?」


 お盆に料理を乗せて、久瀬は食卓の方へと運んできた、私はベッドに沈んでいた重たい腰を持ち上げて、椅子に座る。


「僕の趣味かい?」


「何かあるだろ?」


「うーん」


 立ち込める湯気が彼の顔を少しばかり隠す。私は箸を取り「いただきます」と手を合わせた。


「昔は、サイクリングが好きだった」


「サイクリングか。いいじゃないか」


 畑道を勢いよく自転車で駆け抜ける。涼しい風が身体をさらっていく感覚を想像してみた。実に気持ちよさそうだ。それにあの花畑の丘を登ってもいい。少ししんどいかもしれないが、いい運動になるだろう。


「久瀬、それじゃ一緒にサイクリングをしよう」


「でも自転車がないよ」


「自転車屋は無いのか」


「うん。随分前になくなった」


「それじゃ、誰か持ってそうな人に頼んでみよう」


「わざわざ、そこまでしなくても」


「遊びは一生懸命にするものなんだ」


 そう言って、かき込んだ味噌汁はとても熱く、思わず間の抜けた声が漏れた。

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