(2)

 私は扉を開ける。視界に飛び込んできたのは、床に腰を抜かして怯えている五郎と、ベッドの脇でぐったりとしている栗田だった。彼の隣にはもうひとり女性が倒れていた。


「大丈夫か」私はそんな言葉を口走る。


「栗田が死んでるんだ」


 すっかり青ざめた顔をして、五郎が声を震えさせた。


 栗田の首には、くっきりとしたあざが出来ていた。きっと首を絞められたんだろう。私はすぐにこの町で起こっている殺人事件のことを思い出した。連続殺人。そう言ったのは確か五郎だった。


「どうなさったんですか?」


 慌てた様子で、お手伝いの女性が部屋に入って来た。部屋の様子を見るなり、彼女も大きな叫び声をあげる。


「旦那様、奥様……」


 どうやら栗田の横に倒れているのは、彼の奥さんらしい。倒れた二人に近づこうとした彼女を私は制止する。


「お手伝いさん、急いで警察と医者を」


 こんな状況になっても、人は意外と冷静な判断が出来るらしい。私が栗田と馴染みが浅いせいかもしれないが。


「は、はい」


 お手伝いさんは、慌てて部屋を出た。




☆刑事



「常田さん、いつまで続ける気ですか?」


「少しは黙ってろ」


「そうは言っても付き合わされている側の身にもなってくださいよ」


 深夜の四ツ橋。ハザードを焚いた車の中で、常田は後輩の刑事の山川やまかわと共に、交差点を張り込んでいた。南から北へと流れていく車の波を、じっと見つめる。


「最近の若いやつは根気がない」


「根気よりも切り替えですよ。諦めと適応こそが時代を生きるために必要な能力ですから」


「口だけは達者だな」


「そういう時代なんですよ」


 山川はそう言って、コンビニのサンドイッチを頬張ると大きなあくびをこぼした。目に涙を浮かべて、ブラックの缶コーヒーで流し込む。根気はないと言ったが、訂正すべきだろう、と常田は思った。山川の言っていることは正しい。価値観や考えというものの賞味期限は早い。それに気づかず、いつまでもしがんでいると腹を下しかねない。そろそろ吐き出すタイミングなのだろうけど、この件だけは思うところがあった。


「こんなところを張り込むんじゃなく、我々も佐々木を探した方がいいじゃないですか?」


「そう思うか?」


「そりゃ、そこのコンビニに佐々木は被害者と訪れていたんです。否が応でも疑うでしょ」


「だが、殺された瞬間が映っていたわけじゃない」


「そうですけど。佐々木と被害者が映っていた数時間後の明け方には、ゴミ袋に入った死体が見つかったんです。少なくとも佐々木は重要参考人ですよ」


 缶コーヒーをドリンクホルダーに置き、山川は佐々木の写真を取り出した。


 中肉中背の若い男だ。若いと言っても、山川の三つほど上だが。大学を卒業後、大阪市内に拠点を置く劇団に所属。今年の春頃のその劇団を脱退して、就職活動をしていた。無事に就職先が見つかったところで、この事件、そして行方不明だ。


「佐々木がやったと思うか?」


「断定はしてませんよ。可能性の話です」


「そうだな。あらゆる可能性を捨てるのは得策じゃない。だから俺はここを張ってるんだ。佐々木は探すのは効率がいいと思えん」


「そうですか」


 山川の吐いた溜息が、エアコンの効いた車内の空気に溶けていった。男の汗とタバコの煙が混ざった嫌な匂いを彼は浅く吸い込む。ふいに、将来のある若者を付き合わせることが、申し訳なくなる。そんな風に思うのは自分が歳を取ったせいだろうか。


「今回だけは付き合ってくれ」


「さっきまでの威勢はどうしたんです? 常田さんは、頑固オヤジがお似合いですよ」


 冗談交じりだが、山川の言葉には僅かな憂いが込められていた。常田は思わず大人気なく眉間に皺を寄せる。


「俺はそこまで歳じゃない。お前の両親よりは若いだろ」


「うちの両親は四十五くらいです」


 残念ながら、常田の方が歳上だった。山川の両親は、若くして授かったらしい。こうして一端の刑事に育てたのだから立派なことだ。少なくとも、二十歳の頃の常田に家族を養うなどという覚悟はなかった。


「俺も歳を取ったんだな」


「まだ折り返しじゃないですか」


 山川の視線は、交差点を右折していくタクシーを見つめていた。目的のものでないと分かるやいなや、彼は再びサンドイッチを頬張る。


「折返しかどうかは分からない」


 それに、と続けて、「この仕事をしている以上、死ぬ覚悟はしているさ」と常田は付け加える。


「そうですね。明日、死ぬかもしれないと思って生きるのが正しいと僕は思います」


「以外だな。お前はもっと気楽な考え方だと思っていたが」


「明日、死ぬかもしれないと思った方が気楽ですよ。迷ったり悩んだりする暇がなくなりますから」


 若いやつの考えていることは分からないと思うが、時折なるほどと思わされることもある。そう思えているうちは自分も若いのかもしれない。



☆私



 やって来たのはあの警官だった。「現場保存だ」と言って、私たちをすぐに部屋から追い出した。医者も一緒にやって来たのだが、すぐに帰ってしまった。治療の施し用がなかったのだろう。


 泣き崩れるお手伝いさんに、「大丈夫ですか?」と五郎が声をかけていた。「どうして旦那様が」と嗚咽混じりの声をもらす。「私はこれからどうやって生活していけば」どうやら、心配しているのは自分の身らしい。


「発見したのは?」


 部屋から出てきた警官がぶっきらぼうにそう聞いてきた。「五郎と私だ」と私は答える。


「お前たちはここに何をしに来たんだ」


 鋭い眼光で、警官はこちらを睥睨する。おずおずと五郎が答えた。


「俺が栗田に絵本を見て欲しくて、佐々木には同伴してもらった」


「絵本? お前、まだそんなことしてるのか」


「いいだろ別に……」


「よくないね! いい歳していつまでもバカなことするもんじゃない。お前の絵本はしょうもないんだ。幼稚だ、陳腐だ。早く諦めて、町の役割に遵守しろ」


 激しい口調で、警官は五郎を怒鳴りつけた。五郎が唇を噛みしめる。きっと悔しんだろう。けれど、彼はそのことを言い返したりはしない。警官は、それからお手伝いの女性を指差して、「そこの女がお前たちを中へ入れたのか?」と続ける。


「いや。鍵が開いていたから勝手に入った」五郎の声は小さい。


「勝手に入っただと?」


「留守なら鍵は閉めているものだと思ったから」


「それで死体を見つけたのか?」


「そうだ」


 頷いた五郎のことをにらみながら、警官は考え込むように、顎に手を添えた。それから何かを思いついたように目を見開く。


「そういや、五郎。お前はずっと栗田に絵本を見せてたんだよな?」


「そうだが」


「だったら、ずっと良いものだって言ってくれない栗田を恨んでたんじゃないか?」


「そんなことはない」


「ウソつけ!」


 そう怒鳴り声が廊下に響いたかと思えば、警官は一瞬の動きで五郎を押さえつけた。一昨日、私がやられたみたいに、あっけなく。


「何をするんだ」


 五郎が手足をバタつかせるが、五十過ぎのなまった身体では、警官に抵抗出来るわけはなく、警官の拳が五郎の背中に衝撃を与えると、五郎はぐったりとその場で力を失い倒れた。


「お前は重要参考人だ。動機がちゃんとあるからな。言い訳があるなら警察署で聞く」


 五郎を無理やり立ち上がらせ、乱暴に引っ張った手に手錠をかけた。「ほら歩け!」そう怒鳴りつけ、五郎の尻を蹴り上げる。


 連れていかれる五郎を前に、私は何もすることが出来なかった。あまりに一瞬の出来事だったし、一昨日、警官にやられた恐怖で身体が強張ってしまったのだ。ただ呆然と廊下に立っていた私の前に、警官と入れ替わりで須崎が現れた。


「栗田が殺されたと聞いたが?」


 彼は開口一番に、そう訊ねてきた。殺された話を聞いて急いで来たのだろう、彼の格好は着流しのままだった。だけど、足取りはゆっくりとしていて、とても慌てているようには見えなかった。私はハッキリと頷く。


「そうです」


「そうか……それは残念だった」


 須崎の口元から漏れ出た溜息に込められていたのは、いたたまれなさではないように思えた。もっと短絡的な感情が、彼の表情を歪めさせている。その正体はすぐに分かった。  


「しかし、どうしたものか。これから、一体、誰が絵本を描けばいいんだ」


 頭を抱えた須崎は、その場にうずくまった。「仕事が出来ないじゃないか」腹立たしさを孕んだ言葉を吐き捨てて、彼は激しく貧乏ゆすりを繰り返す。


 私は、先ほど見た光景が嘘のように感じていた。この扉の向こうで人が死んでいるというのに、彼は絵本や仕事の心配をしている。死んだ栗田のことをこれっぽっちも悲しんでいないのだ。「人が殺されているんですよ?」そんな言葉は呆れのせいで出てこなかった。


「明後日の分まではもう受け取ってあるんだ。そうだ。彼の寝室にその先は無いものか」


 そうぼやきながら、須崎はお手伝いさんの方を向いた。面識があるのだろう「おい、君」と声を飛ばす。だが、彼女もまた今後の自分の雇先のことで頭がいっぱいらしく、「これから、どうすれば」とブツブツ言っている。


「おい君、聞いているのか!」須崎が声を荒げると、さすがに耳に入ったらしくお手伝いの女性が怯えた様子で須崎の方を見た。顔はすっかり青ざめている。


「須崎から明後日以降の本は預かっていないか?」


「いいえ。でも、旦那様は一週間先のスケジュールで動いていたので、書斎にストックがあるかもしれません」


「そうか。そうか。それは良かった」


 須崎は笑みを浮かべると、急ぎ足で廊下の奥へと消えていった。お手伝いの女性はその場にうずくまったままだ。


 なんだか腑に落ちない。栗田の遺体はどうなるんだろうか。警察も医者もどこかへ行ってしまった。だけど、私にはどうすることも出来ない。下手に触れば、現場を荒らすなとあの警官に怒られそうだ。


 私は、床に五郎の手提げ袋が落ちているのを見つけて拾い上げた。中には一冊の絵本が入っている。なんとなく、これを風太に届けてあげよう。そう思い、私は栗田の家をあとにした。

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