(3)

 栗田が殺されたという話は、すっかり町中に広がっていた。商店街は、その話題で持ちきりだ。「連続殺人でしょ」「恐ろしい」「五郎がやったらしい」「ひどいやつだ」「あの歳にもなって絵本を描いているからだ」そんな言葉が飛び交っている。私は、五郎の手提げ袋を大事に抱え、風太がいるかもしれない丘を目指した。


 商店街の中頃で、安山に出会った。「よぉ、元気にしてるか?」と彼は髭をさすりながら声をかけてきた。


「身体は元気だ。だけど、朝から大変な目にあった」


「大変なこと? その手提げは五郎のか? あー、もしかして栗田のところにいたな」


 安山にも栗田が殺された話は回ってきているらしい。こういう噂は本当に広がるのが早い。彼は恥じらいもなく大きくあくびをした。今はまだ午前中だから、さっき起きたところなのだろう。


「死体をまともに見てしまった上に、あの警官に乱暴されて、五郎が連れて行かれたんだ」


「そうか。五郎がなぁ。とはいえ、あいつが犯人ではなさそうだが」


「あの警官は無茶苦茶だ」


 私の怒りは一昨日の警官に向けてだ。和らいではいるがまだ身体は痛い。


 安山は憐れんで目を細めると、不思議そうに首をかしげた。


「お前さんは、その絵本を持ってどうするんだ?」


「五郎が描いた絵本を風太に見せてあげようと思って。この本は彼のことを思って作ったらしいから。風太は良く少女の家のところにいるのか?」


「うーん。俺はあんまりそっちへはいかないからなあ。久瀬は良く知ってると思うが」


「そうか」


 確かに久瀬は風太のことをある程度、知っているような口ぶりだった。彼のことをもっと聞いておけば良かった。そんな後悔と同時に、安山に頼みがあったことを思い出す。


「今晩も向こうに行くんだよな?」


「そうだ。仕事だからな」


「なら、初日の時みたく、新聞をまた持ってきて欲しい。向こうで自分がどうなっているのか知りたいんだ」


「分かった」


 安山は頷いて、また大きくあくびをこぼした。茶色に変色したガタガタの歯が、彼の年齢をより年寄りに見せていた。


 *


 丘の花畑は今日も静かだった。昨日のような暑さもなく、吹き抜ける風が心地いい。鼻から吸い込む緑の香りは、脳内に不思議な高揚感を広げた。私は木の陰に座り、五郎が描いたという本を広げる。ぼんやりと頁をめくり読み進めていく。


 描かれていた物語はこうだ。


 ある夏の日、祖国を追われた一匹の王子様の猫が、命からがら人間の住む世界にたどり着く。深い傷を負い、意識が朦朧としていたところを、一人の心優しい少年と出会い、命を救われる。


 やがて、仲良くなった二人のもとに、使いのカエルが王子様の国の現状を知らせにやって来る。すべてはかつて横暴を繰り返し、国を追われた猫たちによる国盗りの策略だった。悪い猫たちは、国を支配し国民たちにひどい行いをしていた。その話を聴き、少年が王子様の猫と共に戦うことを決意する。二人で力を合わせ、悪い猫たちを倒し、かつての幸せが溢れる国を取り戻そうとするお話だ。


 読み終えた私は、木陰に横になって絵本を腹の上に置き深く息を吐いた。鮮やかな色彩で描かれた五郎の絵は、温もりの溢れるとても優しいタッチだった。猫の勇敢さとそれを助ける少年とのやり取りに、友情の大切さが描かれている。須崎や栗田がつまらないと揶揄するほど、陳腐なものには思えなかった。 


 私はじっと梢から覗く空をじっと見つめる。大きな入道雲が、空の彼方でもくもくと成長をしていくのが分かった。まるで生きているようだ。思えば、今見えているこの花畑のすべてが生きている。草も花も大地も、すべてが呼吸をしている。私はどうだろうか。肺いっぱいに空気を吸い込み吐き出す。心臓の音が虫の声に重なる。うとうと、とする意識の中で、確かに自分は生きているんだと思った。


「おじさん」


 眠りに落ちかけた寸前、風太の声がして現実に戻ってくる。ムクッとこちらを覗き込んだ影を見つめ返し、「会えて良かった」と私はつぶやく。


「僕に会いたかったの?」


「あぁ」


「どうして?」と風太はコクリと首を曲げた。真っ白な服が陽の光を反射して眩しい。


「これを渡したかったんだ」


 私は腹の上に置いていた絵本を手渡した。


「なにこれ?」


「絵本だよ」同時に、私は起き上がる。


「絵本?」


「そうだ。五郎が描いたんだ」


「五郎?」


 風太は五郎のことを知らないらしい。そういうものだろう。たまに来る親戚のおじさんの顔なんて覚えているもんじゃない。それにあまり風太には会ってはいけない決まりらしいから尚更だ。


 絵本を受け取り、風太はその表紙を怪訝な顔で見つめた。


「絵本は嫌いだったか?」


 風太はかぶりを振る。「けどね」と続けた。


「あまり楽しいお話を読んだことがないんだ」


「というと?」


 私の問いに、風太は木の影に置かれた絵本の束から数冊を手に取った。それを私に手渡す。


「僕らが、よく読み聞かされているのはこれだよ」


「これは栗田が描いたものだな?」


「うーん。たぶん、そうだね」


 五郎のものとは絵のタッチが違っていたし、久瀬がここに運んでいるものは栗田のものばかりだと言っていたから恐らくそうだ。私は絵本の頁をめくった。綺麗な絵だ。確かに五郎よりも上手なのかもしれない。それにお話もしっかりしている。だけど、どうしてかあまり好きにはなれなかった。私が絵本を見る目がないだけかもしれないが。


「風太もこの絵本が好きじゃないのか?」


「うん。も、というとおじさんも?」


「そうだな……。あまり楽しめる作品ではないかな。でも、その絵本なら好きになれるかもしれない。私はそっちの絵本の方が好きだから」


「それじゃ、この絵本を読んでよ」


「私がか? 自分でも読めるだろ?」


「絵本は読んでもらわないと意味がないよ」


 風太はニッコリと微笑んだ。屈託のない笑みに、私も思わず頬が緩んでしまう。確かに、絵本は誰かに読み聞かせてもらうものだ。





★医者


 なんともない顔で出勤した僕を見て、看護師をはじめ院内の全員が驚いた。


「先生無事だったんですか?」


 そんな反応をされるのは仕方のないことだ。


 どうやら僕は、この一週間、行方不明になっていたらしい。警察がいくら探しても、手がかり一つ出てこず、神隠しとまで噂されてしまっていたそうだ。


 とはいえ、ことの成り行きを説明すれば、頭がおかしくなったと思われるに違いない。僕だって、自分の身に起きていなければ、到底信じられる話ではないのだ。妄想や夢の類い、そういうものと現実が曖昧になるというのは、珍しい症状ではない。


 自分自身もそうなのではないか、と疑った。というのも、僕はこちらの世界に少々疲れてしまっていたからだ。患者と向き合ってきた十数年という歳月もそうだし、院内の人間関係、友人との亀裂、親族との問題、数えればきりがない。疲弊しきった精神を癒やす術を人に与えるばかりで、僕は自分の気持を切り替える術をすっかり忘れてしまっていた。


 いつしかひどい自問自答を繰り返すようにもなっていた。そもそも僕は本当にこの仕事につきたかったのだろうか? と。


 父が医者であったせいで、僕も当然のようにそうなるべきだと育てられた。僕自身もそうあるべきだと思っていたし、そうあろうと努めた。結果として、こうして医者になることができ、両親も喜んでいたし、周りからも祝福された。けれど。


「やっぱり、彼は優秀だった」


 祝福の言葉はいつもこれだ。親戚や知り合いに会うたびにこの言葉が飛んでくる。それは本当に祝福なんだろうか? 彼らは僕を認めてくれているわけではないのだ。ただ「元来生まれ持った力を発揮出来たね」とそう言っている。もし僕が医者になれていなければ、「彼は失敗作だ」と指を差されていたんだろう。


 そんな風に疲れ切った僕が、自分を救い出すために、別の世界を想像してそこへと逃げ込んだ、と考えるのはなくもない話だ。


 だけど、あちらでの出来事を妄想と否定してしまうには、あまりに体験が鮮明すぎた。それに偶然持ち合わせていたカメラで写真に収めてしまっている。現像してきた写真に映る、あの町の風景、景色、それらを看護師たちに見せて、僕だけに見えている幻想などではないことを確かめた。


 やはり、向こうでの出来事は本当のことだったのだ。

 

 自分はどうかしてしまったのではないか、という不安が払拭されると共に、帰ってきてしまったことを少し悔いた。もう少しだけ向こうにいても良かったのだ。


 とはいえ、あちらの世界の本質は、ここと何も変わらない。決まりきった役割があって、みんなそれに従って生きていた。ただ、少しだけこちらよりも単純なのだ。より狭く、より単純化された社会が、なんとなく心地よく感じられた。


 ――それに。


 僕が本当に欲しかったものがあの町にはあったのだ。美しく無垢なもの。僕はそれを欲し続けていた。



 翌日、仕事を終えた僕は、警察へことの成り行きを説明しに行った。事件性はないと判断されたのだが、こちらの話が向こうに通じるわけもなく、向こうサイドが納得のいくエピーソードへと話を捻じ曲げていくのに、随分時間がかかってしまった。


 とっくに終電を迎えガランと静かになった深夜の四つ橋筋を歩く。前と似た状況のせいか、警察に詳細を話したせいか、一週間前のことを思い出す。仕事終わり、ぼんやりと止めたタクシーに乗り込み、うたた寝をしてしまい、気づくとおかしな部屋に連れて行かれていた。


 診療所のようなおかしな部屋で僕が戸惑っていると、久瀬という若い男がやって来て、僕の身の回りの世話をすると言い出した。久瀬は狐顔の仕事熱心な男だった。「少女に会って欲しい」そう頼まれて、それから僕は少女と会うことになった。それが、僕に課せられた役割だったのだ。


 それから一週間、僕はあの町にいた。医者として、毎日少女に会いに行き治療を施した。彼女はひどく嫌がってはいたが、頼まれたことなので仕方ない。それに、僕は誤った状態を正常に戻すために与えられた役割をこなしたのだ。だから恨まれることなんてないはずだ。


 治療の成功をもって、僕の役割は終えたと判断されたのだろう。夜中に安山がやって来て、僕を連れて帰ると言った。礼もなにもなく、淡白な対応だった。帰りたくはなかったが、留まる理由も思い浮かばず、気が進まないまま僕はこっちの世界へと戻ってきたのだった。


 大きなあくびを噛みしめる。久しぶりの仕事と警察の事情聴取で疲れてしまった。交差点の向こうにタクシーが見えて、僕は手を上げた。それが安山の運転するあのタクシーだと気づいた時には、すでに車は目の前まで来ていた。「賃送」となっているのに、どうしてか僕の前に停車する。


「どうしてまた」


 僕の呟きに窓が開き、安山が顔を出した。


「相席で悪いが乗りな。お前さんに話がある」


 僕の反応を見ることなく、安山は首を引っ込めた。同時に、後部座席の扉が開く。中には泥酔した男が乗っていた。 

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