四章

(1)

 翌日、私はわりと早い時間に目を覚ました。久瀬がやって来て、朝食を取る。相変わらず、「仕事だ」と彼はすぐにいなくなった。恐らく須崎のところだ。それに着いていく気にはなれず、彼を見送る。


 家でじっとしているのも暇なので、私はまた散歩することにした。昨日はそれで充分に暇を潰すことが出来た。特に目的もなく、商店街の方へと歩いていく。


 気温は昨日よりも涼しかった。初夏のような気持ちの良い陽気だ。昨日のようにジメジメとした気候はたまったもんじゃない。都会では仕方ないかもしれないが、せっかく田舎風景なんだから気持ちの良い気候で過ごしたい。


 向こうではどうなっているのだろうか。行方不明になった私を警察が捜索してくれているのだろうか。友人との不風俗帰りに忽如行方不明になった可愛そうな若者なのか、風俗嬢殺しをした卑劣な逃走者としてなのか。私がこちらにいるうちに、無実が証明されればいいのだけど。


 幸運なことに私が行方不明者になろうとも犯罪者になろうとも悲しむ者はさほど多くない。親戚付き合いをしていた方ではなかったし、友人も両手で数えられるくらいしかない。迷惑をかけているのは、採用してくれた会社くらいだろう。


 向こうの状況が知りたい。昨日、安山に会った時に、新聞でも頼めば良かった。きっと彼だけが向こうの情報を仕入れることが出来るはずだ。


 そんなことを考えていると商店街に着いた。


 見知った顔は少ないので、葉月か五郎を探してみる。五郎はまたあの酒屋だろうか。店のガラス戸を覗き込んで見たが、まだ店は開いていない様子だった。


 当てが外れたため、私は肩を落とし、どこに向かおうか考えた。風太を探しに丘を登るのも悪くない。あの景色が見られると思えば、ある程度の坂は我慢できる。


「佐々木?」


 突然名前を呼ばれて、はっと驚く。一昨日の警官のせいで妙に警戒心が強くなってしまった。おずおずと振り返ると、そこには五郎が立っていた。私は、「おぉ、探していたんだ」と思わず大きな声を出してしまう。探し人が見つかったことが嬉しかったのだ。


「俺を探してたのか?」自分の顔を指差して、五郎が眉根を下げた。


「そうだ。知り合いも少ないから、葉月か五郎のどっちかに会いたくて」


 言い訳のように恥ずかしい言葉を並べた私に、五郎は「そうか」とシワのある頬を掻いた。少し照れくさそうにもじもじして、手にしていた手提げ袋をギュっと握りしめる。


「なぁ、暇なら付き合ってくれないか?」


「何に?」


「今から栗田のところへこれを見せに行くんだ。一人だと心細くて」


 栗田と言えば、須崎の演説に応援に来ていた絵本作家だ。彼に見せたいものは何なのか。理由は歩きながらでも聞けばいい。特に用事もないので、着いていくことを承諾する。


「そうか、ありがとう」


 五郎は軽く頭を下げた。今になって気づいたが、今日の彼は酔っ払っていない。ここに来てから酒に酔った彼しか見てこなかったので少し新鮮だった。


 *


 商店街を抜けて畑道を歩いていく。広場に向かうのとはまた別の道だ。澄んだ水路に、おたまじゃくしの群れが泳いでいた。


「栗田に何を見せるんだ?」


「これだよ」


 そう言って、五郎は手に持った手提げ袋を掲げた。白い生地の袋は、中身のせいで角張っていた。


「その中身は?」


「絵本だ」


 五郎はまた少し照れながら言った。それに緊張しているようにも見えた。酒が入っていないせいかもしれないけど。少なくとも、袋を持ち上げた所作はどこかぎこちなかった。


「絵本というと、君が描いたのか?」


「そうだ」


 どうやら五郎は自分が書いた絵本を栗田に見せに行くつもりらしい。


「これまでにも栗田には何度も見せてるんだけど、中々、認めてもらえなくて。最近は、直接、須崎のところへ持っていったりもしてるんだ」


 五郎の話を聞いながら、私は久瀬と須崎の家に行った時のことを思い出していた。納屋の前に積まれていた本、それに「彼はどうもくどくてね」「取り合ってあげればいい」という二人の会話。あれは五郎のことだったんじゃないだろうか。


「確か須崎は、少女用の絵本を選んで、毎日久瀬に渡していたよな?」


「あぁ。彼は少女のための絵本やおもちゃを選ぶのが仕事だから」


「選んでほしくて須崎に直接渡してたのか?」


「そうだ。本当は、栗田からお墨付きを貰ってからの方が、須崎に選んで貰いやすいんだろうけど。栗田が全然認めてくれないから直接評価して貰ってたんだ」


 やはり、あの話は五郎のことらしい。


「五郎は、栗田と須崎に認めてほしいのか?」


「うーん。少し違うな。少女に読んで欲しかったんだ……もう死んじゃったけど」


 だけど、五郎の本は少女には届いていない。あの納屋の前で山積みにされているのだ。


「なら、直接少女に持って行ってやればよかったじゃないか」


 頭に山積みの絵本が浮かんでいた私の声は自然と優しいものになっていた。


「それは出来ない。須崎が選んだ本を久瀬が届ける。それが決まりなんだ。それに俺たち大人はあまり少女たちに近づいちゃいけないんだ」


「だけど、須崎に渡しても選ばれるのは栗田ばかりなんだろ?」


「描き続ければいつか選ばれるかもしれない」


 五郎は語気を強めた。夏の風に淡い願いが溶けていく。


 五郎の本と栗田の本。そのどちらが良い作品なのかは、読んだことのない私には分からない。ただ、須崎には明確な基準があるんだろう。彼は自分の選定に自信を持っていた。


 それに「決まりなんだ」なんて簡単に五郎は言ってみせたが、彼の中には葛藤だってあるはずだ。どうして自分が選ばれないのか。そんな不満が、彼をお酒に走らせているのかもしれない。それでも彼は自分に力の無さを甘んじて受け入れ、粛々と絵本を描き続けているのだろう。


「すまない大きな声を出した。……選べないのは事実だ。だから今日は、久々に栗田のところへ行こうと思って」


「どうしてそこまで?」


「どうしても読んでもらいたいんだ」


 読んで欲しいと思うのは何も不思議なことではない。役者をしていた私は、舞台をたくさんの人に見て欲しいと思っていた。そのために実費でチケットを買い、赤字覚悟で売ることも惜しまなかった。私はそこから逃げ出してしまったが、彼はまだもがき続けているのだ。


「五郎は、ずっと少女のために描いてたのか?」


「うーん、どうなんだろう。少女だけのためってわけじゃない。少女の前は葉月のために描いていた時もあった。今回の作品は、風太のためを思って作った。……俺の絵本で笑顔になって欲しいんだ」


 そう言った五郎の目はとても真剣だった。青空を縁取る遠い山並みを見つめ、須崎の納屋の前に山積されていた絵本を重ねてみる。須崎は、あの絵本をどうするつもりなんだろうか。「駄作は評価出来ない」確かそんなことを言っていた。評価のつかない作品の最期は想像出来る気がした。


 ひどく胸が痛んだ。五郎の作る絵本はそこまで価値のないものなんだろうか。灰にならなければいけないものなんだろうか。


 釈然としない私に、五郎は鼻息を荒くした。


「佐々木が暗い顔をしてどうするんだ。お前が否定されたわけじゃないだろ」


「そうかもしれないが、五郎の気持ちは分かる。私も認められないことが多かったから」


 そうか。と五郎は短く息を吐いた。彼は一体、何冊の絵本をこれまで生み出してきたのだろう。そして、何冊の絵本が世界から葬り去られたのだろう。


「でも、俺はまた描いたんだ。そしてこれが突っぱねられても。それでもまた描く」


「なんで絵本にこだわるんだ?」


「昔、絵本に救われたんだ。だから俺は絵本で誰かを救いたい」


「そうか。そういうのは分かると思う」


 彼は自分の初期衝動をしっかりと覚えているのだ。役者を目指した理由を忘れてしまった私とは違う。


「五郎は絵本が好きなんだな」


「あぁ……」


 だけど、才能がなければ続けていけない世界だ。それを彼も分かっているはずだ。だけど、諦めきれない。私が逃げ出したのは、そういう葛藤からだ。



 *



 栗田の家は、須崎に負けないくらいの豪邸だった。だけど、こちらは洋館。大きな庭に噴水があり、花壇には綺麗な花が飾られていた。まるで絵本の中の世界みたいだ、と思った。


 緑の蔦のトンネルを抜けると、レンガ調の家が見えてくる。五郎は、広い庭を迷うことなく真っ直ぐ進み、玄関の方へ向かった。それから呼び鈴を鳴らす。


 ブゥー、と低い音が響いた。少し待ってみるが、誰からの反応もない。五郎がもう一度、呼び鈴を鳴らした。


「留守じゃないか?」


「こんな朝から?」


「そりゃ、用事がある日だってあるだろ」


「うーん。いつもは家にいるんだけどな」


 そう言って、五郎は二階の窓を見上げた。私も同じ動きをする。


 二階の窓は開いていた。カーテンが夏の風に煽られて靡く。留守にしているにしては、あまりに物騒だ。私もあの診療所に鍵などかけていないのだけど。あそこに私が盗まれて困るものはない。


 だけど、ここは立派な豪邸だ。有名な絵本作家である栗田ならそれなりの富を抱えているはずだ。それに、町では連続で殺人事件が起こっている。用心はするに越したことはないはず。


 五郎も同じことを思ったらしく、開いた窓を指差した。


「窓が開いている」


「そうだな」


 私はその場で、一階の窓も見渡してみた。わずかではあるけど、窓が開いているところがる。こんな状況で栗田は出かけるのだろうか。


「栗田ー!」


 五郎が激しく扉を叩いた。だが反応はない。


「鍵はかかってるのか?」


 私の問いに、五郎はすぐ扉に手をかけた。玄関の扉は簡単に開く。


「やっぱり留守じゃない」


「みたいだな」


「栗田?」


 五郎が中を覗き込む。


「栗田は一人暮らしか?」


「いや、奥さんと二人暮らしだ。お手伝いさんもいるはずだけど」


「ごめんください」


 私たちはそう声をかけて中に入った。玄関はあの診療所よりも広く、高価そうなマットが敷かれていた。目の前には豪華な螺旋の階段もある。


「栗田の部屋は?」


「あっちだ」


 五郎は迷わずに豪邸の中を進んでいく。長い廊下には部屋がいくつもあった。その一番奥の部屋の扉をノックする。


「栗田、俺だ。今日は絵本を持ってきた。見てくれないか?」


 しかし、部屋からの反応はない。部屋だけでなく屋敷から人の気配はしないのだ。


「やっぱり留守だったかな?」五郎が申し訳ないことをした、と言いたげに肩を落とす。


「鍵を開けて? ここに来るまでの廊下には高価そうなものがたくさんあったぞ」


「でも実際、誰かいる気配はない」


「確かにそうだけど」


 その時、玄関から音が聞こえた。「旦那様?」と女性の声が響く。


「お手伝いの人だ」五郎が慌てたように声を上げた。


「ちょうど、良かったじゃないか」


「どうすんだ。勝手に入ってしまってるじゃないか」


「仕方ないだろ。事情を説明するしかない」


 五郎は慌てた様子で逃げようとしていた。「落ち着け」と私が声をかけるが、お手伝いさんの足音がこちらに近づいてきたせいか、彼は逃げるように部屋の扉に手をかけた。


「入る方がまずいだろ?」


 そんな私の言葉など聞かず、五郎は部屋の中へ入っていく。私が廊下の先に視線を向けると、お手伝いさんが見えた。四十過ぎの女性だ。こちらの姿を見て少し驚いている。


 すみません、栗田さんに用事があったんです。呼び鈴を鳴らしても出てこられなくて、鍵が開いていたので。そんな言い訳を並べようとした瞬間、部屋の中から五郎の叫び声が上がった。


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