(3)
★少女
アタシは少女に、小さい頃の話をしてあげた。幼稚園から小学校を卒業するくらいまでのことだったかな。アタシの話を、少女は綺麗な絨毯の上で寝転がりながら、ずっと楽しそうに聞いていた。
「そんなに面白い?」
「うん。すっごく面白い」
足をバタバタさせながら、頬杖をついて、うっとりとした目で少女は言った。どこがそんなに面白いんだろう。何冊も積み重なっている絵本や部屋中に散らかっているおもちゃの方が楽しそうなのに。
「それで、それで、世界中にはどんなお花が咲いてるの?」
アタシが話していたのは、小さい頃に憧れていたお花屋さんの話だった。世界中には、色んな種類の花が咲いていて、赤いもの黄色いもの紫色のもの、大きなものから小さいものまで、数え切れないほどのお花があるんだと教えてあげた。
「そのお花の種類は、丘に咲いているお花よりもたくさん?」
「そうよ。あの丘に咲いているお花を全部違う種類に変えても、世界中にある花の種類にはかなわない」
少女はくるんと身体をくねらせて仰向けになった。両手と足を恥ずかしげもなく広げて、大きく息を吸い込んだ。深く息を吐きながら、興奮気味に胸を踊らせていた。
「びっくりした?」
「うん。びっくりした」
そんな風に喜んでもらえて、アタシもなんだか嬉しくなった。お花の話で喜んで貰えるなんてそんなことめったに無いでしょ?
「ユキちゃんにも教えてあげる?」
「うん。ユキちゃんにも教えてあげる。それでね。ユキちゃんにたくさんの種類の花飾りを作ってあげたいの」
「素敵だね」
それから少女はすっと身体を起こした。まだ興奮気味な表情で、アタシのことを見つめて、目を輝かせていた。
「お姉さんはどうしてお花屋さんになりたかったの?」
その問いにアタシはすぐに答えることが出来なかった。アタシはどうしてお花屋さんになりたかったんだろう。花が好きだったのは間違いない。それは今でも花が好きだから。でも本当にそれだけ? そう思うと、不思議と答えは出来てこなかった。いつの間にか忘れてしまっていたの。あの頃に抱いた感情の根底にあった気持ちを。
言葉を詰まらせたアタシを見て、少女は顔を曇らせた。とても寂しい顔をして、真っ白なワンピースの裾を握りしめた。瞳をうるうるとさせて、アタシの胸に飛び込んできた。
「どうして忘れちゃったの?」
「ごめんね」
アタシは謝ることしか出来なかった。少女の頭を撫でてあげようと思ったけど、無垢な彼女の頭をなでてあげる資格はアタシに無いような気がして。ただじっと彼女が泣き止むのを待っていた。
☆私
久瀬が帰って来たのは、それからすぐだった。玄関から入ってくるなり、「お、食事の準備は出来てるみたいだね」と彼は声を弾ませる。
「ほんの少し前にね。君も食べるんだろ?」
「もちろんじゃないか」
どういうわけか久瀬は胸を張る。私はメイン料理の仕上げをして、食卓に二人分の食事を並べた。
久瀬は食べるのが遅い。一口ずつ丁寧に噛んでから食べる。それに箸使いが綺麗だ。いつも通りスーツを着ているせいで、彼の持つ上品さは助長されている気がする。
「なぁ、久瀬」
「なんだい」
「食事の時にする話じゃないかもしれないが、聞いてもいいか」
「うーん。まぁ構わないよ」
後でも、と言いたかったのかもしれないが、夜もそれなりに更けてきている。久瀬は、夜にはもちろん自分の家に帰る。外を出歩いてはいけない決まりがあるので、食事を終えるといつもさっさと帰ってしまうのだ。
だから、聞きたい話はこうして食事中くらいにしか出来ない。昼間、久瀬は仕事だと言っていなくなるし、朝も久瀬はバタバタしている。
私が訊ねたいことは少女のことについてだ。
「少女のことについて詳しく教えてくれないか」
久瀬の食事をする手が止まった。ぽろりと箸先に掴まれていた肉の塊が皿に落ちる。
「どうしたんだ急に?」
「いや……今日もあの丘に行って来たんだ。少女のことが気になってる理由は、ただそれだけなんだけど、変か?」
「ううん」
久瀬は少し大袈裟にかぶりを振ってみせた。それは彼が少女の死に責任を感じているからだろう。自分の口からその状況を話すのは心苦しいのかもしれない。
「それっぽい理由をつけるなら、もし生きていれば、私が会うはずだった少女がどんな子だったのか知りたくなったんだ」
「確かにそれっぽい理由だね」
取ってつけた理由は警官の真似だ。そうすればこの町の人は納得するかもしれないと思ったのだ。久瀬は柔らかく口端を緩めた。それから一つ、空咳を飛ばす。
「何について聞きたいんだ?」
「どんな子だったんだ?」
「あの子は、とても人懐っこくて可愛らしくて、……穏やかながらわがままな子だったよ」
「久瀬は仲良かったんだろ?」
「どうだろうね。向こうがどう思ってたのかは分からないよ。……佐々木の世話をするみたいに僕はここに来る人を少女のところへ連れて行ったり、絵本やおもちゃを届ける仕事をしていたから、彼女と接する機会が多かった。おしゃべりをしたし、遊んだりもした。でも僕は忙しかったから、たくさん時間は取れなかったんだ」
久瀬の目には後悔が滲んでいた。もっとたくさん少女と接してやれば良かった。そんな風に思っているのかもしれない。私は、ガラスコップに入った水を口に含む。ひんやりとした冷たさが喉奥へと流れていった。
「遊んでやったなら少女は喜んでいたんじゃないかな」
久瀬は小さく首を横に振った。溜息にもならないくらい僅かに息を吐き、少し遠い目をした。
「僕よりも外から連れてきた人たちと遊んでいる時の方が、彼女は楽しそうにしていたよ」
「私みたいな人たちだな」
「そうだ。あの子が一番楽しそうにしていたのは、前々回、女の人が来た時だったかな。あんな笑顔みたことないってくらい笑っていたよ。だから、僕と話したり遊んだりしたことは……」
何か言葉をかけてやるべきなのだろうけど。あまりにも悲しそうなにする久瀬の双眸を、私はしばらくじっと見つめることしか出来なかった。
彼にとって少女とはどういう存在だったのだろうか。如何わしいイメージが踊るが、きっとそんな淫らなものじゃない。もっと単純で無垢な感情なはずだ。
「……幼い思い出っていうのは平等じゃないものだよ。どれだけ楽しくても覚えていないことだってあるし、どうでもいいことを覚えていたりもする。少女が君と遊んだことを覚えているかどうかなんて誰にも分からないことだ。でも、遊んだ、話した、その事実が消えるわけじゃない。少なくとも君がその思い出を特別だと思っているうちは」
「そういうものかな」
「そうだとも。君だって昔にあった楽しいことのすべてを覚えているわけじゃないだろ? 反対にどうでもいいことだって覚えているんじゃないか」
久瀬は少し考えてから頷いた。
「そうかもしれない」
「大人になるっていうのは、どうでもいい記憶に大切な思い出をかき消されていくことなのかもしれないな」
そう思えば、私は随分前から大人になってしまっていたのかもしれない。やはり両親の死は関係ないのだ。役者を志した理由を忘れてしまった時点で、大人という衣へ着替えてしまったらしい。
「そうやって少女を楽しませる為に、安山は人を連れてくるのか」
「うーん。どうなんだろう。必ずしも連れて来られた人とのおしゃべりをあの子が楽しんでいたわけじゃないんだ」
「というと?」
「例えば、前回来た医者のことを、少女はあまりよく思っていなかったよ」
「あまり遊んでやらなかったとか?」
「いや。そういうわけではないよ。それなりに彼は少女と接していたはずだ。だけど、人懐っこいはずの少女が、あまり懐かなかったんだ」
少女にだって好き嫌いをする権利くらいあるわけで。医者という職業柄、少女が好まなかった可能性もある。幼い頃は、医者には注射やら歯医者やらと怖いイメージがあるものだ。
「そういう場合はすぐに帰されるとか?」
「うーん。彼はかれこれ一週間くらいだったよ。えーっと、これは長い方だ。ちょうど、君が来る前々日くらいまでいたかな」
久瀬は連れて来られた人物の帰還に関してはあまり詳しくはないはずだ。一日目の朝に、「安山が連れてくる人はいつも気がつくと帰ってる」と言っていた。始めは逃げ出しでもしているのかと思ったが、逃げられないことは実証済みだ。そのタイミングを決めているのは安山だろうか。それとも連れて来られた本人なのか。
帰りたければ帰してやると私は言われたが、連れてこられる予定がなかった私と彼らでは少々条件が異なるかもしれない。
久瀬はまたゆっくりとご飯を食べ始めた。大皿にもられたおかずからは、すっかり湯気はなくなっている。
「そうだ。昨日、男の子にあったよ」
「男の子? ……あぁ風太か」
「そうだ、風太だ」
「珍しいな。あの子は外から来た人にあまり懐かないんだけど」
「そうなのか?」
「少なくとも話しているところは見たことがないなぁ」
口に含んだまま久瀬は話す。少女の時とは態度が違う。
「私には普通に話してくれていたように思えたけど」
「ふーん。まぁいいことだよ。あの子ももうすぐすれば、外の人とたくさん話さなくちゃいけない歳だ」
「どういうことだ?」
「それが決まりなんだよ。十歳になれば外の人と交流をする。それを連れてくるのが安山の仕事。連れてきた人の世話をするのが僕の仕事。絵本を作り、おもちゃを与え、危なくないように見回りをして。彼ら彼女のために人々は働いているんだ」
「それじゃ、君も幼い頃、外から連れてきた人と話していたのか?」
「そうだよ」
この町はとても機械的に動いているらしい。決められた役割は少年少女を育てるため。自分たちがやってもらって来たことを、彼らは疑問を持つことなく遂行しているのだ。だとすれば、外から人を連れてくるのはどうしてだろうか。
「だから、風太が外の人と話すのに慣れてくれたというのはとてもありがたいね。佐々木のおかげだよ。ありがとう」
そう言って、久瀬は冷えた味噌汁を飲み干した。
「そうだ。それと楓っていうのは?」
「あー。それは風太が言ってたことだろ? そんな人、この島にはいないよ」
「いないってどういうことだよ」
「そのままの意味だよ。楓なんて人物だれも知らないんだよ」
知らないとはどういうことだろうか。不思議がる私にそれ以上構う様子はなく、久瀬は空になった食器を重ねて、シンクの方へと運んでいく。「美味しかったよ。ごちそうさま」、そう言い残し、彼は診療所を後にした。
皿洗いはどうやら私の仕事らしい。そういう決まりなら、受け入れるしか無い。
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