(6)
風太が丘を下って行ったあと、陽だまりに包まれた気持ちよさから寝転んでしまい、私はそのまま眠ってしまった。目が覚めるとすっかり夕暮れだった。綺麗なオレンジが丘の向こう側へと沈んでいく。涼しい風が花畑を揺らす。草花のざわめきは、夜が迎えに来たことを私に知らせてくれたのだろうか。座ったまま身体を伸ばし、大きなあくびを漏らした。早く戻らなくては。夜は出歩くなというルールを守らなくては、またおかしな疑いをかけられかねない。
トボトボ、と歩いていると完全に日は暮れてしまった。それでも私が急ぎ足にならなかったのは、町の方へ戻れば、まだ出歩いている人がいたからだ。夜と言っても出歩いちゃいけないのは夜中だけなのだろう。それなら何時から何時までだと教えてほしい。教えてもらったところで、私に時間を確認する術はないのだけど。
商店街の近くまで戻ってくると、入り口近くに屋台が出ているのが見えた。赤い提灯が一気に喉の乾きを誘う。久瀬は診療所で待っているだろうか。食材を買ってくるとは言っていたが。ゆらゆらと揺れる赤い誘惑に負け、私は屋台へと近づいていく。
「どうせ殺すなら栗田にしてくれれば良かったんだ」
私が暖簾に手をかけようとしたところで、そんな声が聴こえてきた。声の主を私は知っている。五郎だ。その隣には葉月が座っていた。私は思わず、暖簾から手を引く。
「そんなこと言うもんじゃないよ」
「だけどよぉ葉月……おりゃもう……」
「五郎は頑張ってるって」
そう言って、葉月が五郎の背中を擦った。酒を一気に煽った五郎が、潰れるようにテーブル伏せる。
「もう、お酒は程々にしないとだめだよ」
「今日も断られたんだ」
「毎朝持っていってるのかい?」
「諦めきれないからな」
葉月が溜息をこぼす。五郎は首だけを葉月の方に向けた。話を聞いてしまったことが後ろめたく、気づかれてはいけないと私はゆっくりと後付さりをする。
「そう言えば、今夜はお前の番だろ?」
「……あぁ、そのことか」
「確かお前には初めて回って来たんじゃなかったか?」
「そうだね。でも僕はいいよ……」
「本当にお前さんは一途なロマンチストだな……」
会話は徐々に聞こえなくなっていった。
*
診療所に戻ると玄関で久瀬が仁王立ちで待っていた。「遅いじゃないか」まるで門限を破り母に怒られている気分だ。腰元に手を置いて、久瀬はこちらをじっと睨んだ。
「ずっと待ってたんだぞ」
待っていてと頼んだ覚えはないのだけど。
「ちょっと、丘の上で昼寝をしてしまったんだ。目覚めたらすっかり夕方で」
「昼寝か。まぁ、あそこは気持ちのいいところだからね。それに今日は須崎のところに行って丘を登って。疲れたろうね」
なら仕方ない、と久瀬は溜息をこぼした。久瀬は時々、聞き分けが良すぎて拍子抜けする。台所の方へと向かい、冷蔵庫の扉を開けてこちらを向きニッコリと狐に似た顔を笑顔に変えた。
「さぁ食材は買ってきたよ!」
「私が君の分も作るのか?」
「もちろんだよ。作れるって言ったのは君じゃないか」
なら仕方ない。私は渋々、夜ご飯の調理を始めた。
★少女
アタシはその日も少女の元へ行ったわ。
「良かった今日も来てくれた」
「約束したからね」
少女は嬉しそうに身体を弾ませて、部屋の中を飛び回っていたわ。スカートがめくれ上がるから「駄目だよ」なんて注意して。すると少女は少しだけ恥ずかしそうに裾を抑えて、頬を膨らませたの。
「お姉さんになら見られてもいいもの」
「そんな風に思っているとそのうち誰に見られてもいいって考えになっちゃうよ」
「ならないもん」
「そういう風になっちゃうんだけどなぁ」
肩を竦ませたアタシに、少女は顔を曇らせて少しだけ目を潤ませた。「絶対にならないよ」って。
「ほら、今日は何して遊ぶの? ユキちゃんと三人で遊ぼうか?」
「ううん。今日はユキちゃん遊びたい気分じゃないんだって」
「そう。それじゃどうする?」
「うーん」
少女は喉を鳴らしながら、キョロキョロと部屋の中を見渡した。部屋の中には、たくさんのおもちゃで溢れていた。積み木にお人形、蒸気機関車の模型にクッキングトイ。どれも新品みたいに綺麗で。たくさんあるおもちゃを前に少女は指を咥えて迷っていた。
「ほら、絵本を読むっていうのはどう?」
「お姉さんが読んでくれるの」
「そうよ。アタシが読むのは駄目?」
「ううん。嬉しい。私、人に絵本を読んでもらうのは初めてなの」
部屋には絵本もたくさんあった。山積みになった絵本の中から、アタシは適当な一冊を手に取る。
「それじゃこれを読んでみようかな」
アタシは頁をめくり、少女に絵本を読み聞かせた。だけど、少女はあまり楽しそうじゃなくてね。木馬に腰掛けながら、足をブラブラと揺らしていた。
「ねぇ、お姉さん」
アタシは絵本を読むのをやめる。
「なに?」
「その絵本つまらないよ」
「そう? ちょっとお話が難しいのかしら」
少女は何度か首を横に振った。瞳には複雑な感情が渦巻いているように見えたけど、それを言葉にできないのね。とってももどかしそうだった。木馬から降りたかと思えば、こっちに駆け寄って来てアタシから絵本を取り上げたの。
アーモンドの形をした目が、アタシを見つめてこう言った。
「もっと楽しいことをしよう」
「もっと楽しいこと?」
「うん! そうだ……、お姉さんのお話を聞かせて」
「アタシの話?」
「そう。私はお姉さんのお話が聞きたい」
「アタシのどんな話が聞きたいの?」
「うーん。それじゃ、私と同じくらいの歳だった頃の話が聞きたいな」
「あなたくらいの頃のアタシ?」
「うん!」
少女の目があまりに輝いていたから、アタシは話してあげることにした。だって、今のアタシなんかの話より何倍もいいでしょ? 今のアタシの話は少女には出来ないもの。
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