三章

(1)

☆私


 私が目覚めたのは昼過ぎだった。時計などもないのに昼過ぎだと思ったのは、「まだ寝ていたのか。もう昼過ぎだぞ。僕は今から仕事に行くよ」と、目覚めてすぐ、わざわざこの診療所を訪れた久瀬がそんなことを言ってきたからだ。


「そうか。私はここでゆっくりしておくよ」と彼を送り出したのだが、しばらくして着いていけば良かったかなと後悔してきた。


 何もすることがなく暇なのだ。昨日、久瀬が買ってきた食材で適当に昼食を作って食べたあとは、ベッドで横になり簡素な天井のシミの模様を見つめるくらいしかすることがなかった。


 普段テレビなんて観ないくせに、テレビのないことが腹立たしく思えてくる。テレビがあったところで、受信するかは怪しいけれど。


 昨日の警官とのやり取りのせいで外に出るのは怖かったが、暇には勝てなかった。少しくらい運動しなければ、腹も減らないぞ。冷蔵庫には久瀬が買ってきた二人分とは思えない大量の食材があるじゃないか。そんな理由をこじつけて、私は診療所をあとにした。


 行く宛もないので、商店街の方へ向かう。この数日と比べて、ジメッとした暑さが肌についた。額から湧き出てくる汗を私は手で拭う。畑のトマトを横目に、トボトボと歩いていると、前から安山が歩いてきた。


 安山はこちらに気がつくと、小さく手を挙げた。


「よぉ」


 気安くそう呼ばれて、私も思わず手を挙げそうになる。いくらなんでも倍くらい歳が離れている人だぞ。咄嗟に、自分に言い聞かせて、軽く頭を下げた。安山は、蓄えた白髪交じりのひげを撫でながら、不思議そうに眦を下げた。


「どうした?」


「ちょっと散歩をしていて」


「今日はこんなに暑いのに」


 夏だとはいえ、昨日は過ごしやすい気候だった。だけど今日は本当に暑い。まるで蒸し風呂みたいだ。


「本当に暑いよ」


「これだけ暑いのも珍しいさ。夏でも過ごしやすいのがこの町のいいところなんだ」


 どうも異常気象というやつらしい。


「明日にはマシになると思うぞ」と安山。


 私は少しだけ安堵した。ただ過ごしやすさと共に、暇を潰せるものがあればいいのだけど。


「散歩をしていたのは、あまりにも暇だったからなんだ」


「暇?」


「うん、何もすることがないから」


 少しだけ考えて、安山は勝手に納得したように頷いた。それから自分の思考は相手に伝わっていないのだと気づいたのか、話しはじめる。


「ここの町のやつらは、仕事が決まっているから暇だなんて発想がなかったのさ。久瀬もそこに気が回らなかったんだろうな。それに普段は、連れて来たやつらにも役割があるから、暇になるなんてないことないんだ」


 私のおかれている立場も異常な状態なんだろう。少女が死んでしまい、私に与えられた役割はなくなってしまった。その対応策を久瀬は何も用意していないのだ。


「暇なら一緒に来るか?」


「安山はどこに行くつもりなんだ?」


「今から須崎の演説を聞きに行くんだよ」



 *



 暇だった私は安山と一緒に須崎の演説を聞きに行くことにした。さほど興味があったわけではないが、暇つぶしくらいにはなるだろうと思ったのだ。それに安山には聞きたいことがまだある。


 演説は商店街とは反対側にある広場で行われるらしい。私が昨日の夜中に歩いて行った道を、安山がトボトボと進んでいく。こっち側に広場があったらしい。あの時は真っ暗でそんなものがあったかどうかは分からなかったが。


「なぁ、安山」


「なんだ?」


「私をここに連れて来たのは君なんだよな?」


「そうだな」


「実は、ここに来た時からスマートフォンや財布が見当たらないんだ。それにベルトもだ。何か知らないか?」


 あんたが盗んだんだろ? そういうニュアンスを出来るだけ込めないように努めた。そういう疑いが私の中にあったのは事実だし、そうである可能性が一番高いとも思っていた。だが、盗んだ相手の前に風こんなに現れるだろうか。容疑者が不特定多数の状況ならば、私は犯人ではないですよ、なんて顔をしているのも分かる。しかし、酒に潰れた私からそれらを盗めるのは安山か久瀬くらいしかいないのだ。


 私の問いに安山は迷いなく答えた。


「財布とベルト、それに時計は預かっている。安心しろ、中身を盗んだりはしてないさ。帰り際になったらちゃんと返すよ」


 それを聞いて私は少しだけ安心した。ただ彼が預かったというリストに、スマートフォンは入っていない。私はそのことを追求する。


「あんたは持ってなかったぞ? いや、確認したのはあんたがあの部屋に入ってからだから、それ以前に落としてしまっている可能性はあるが」


 それ以前というと、安山のタクシー紛いを拾う前だろうか。店から大通りまでそれほど歩いていないはずだが。それとも店を出る時に忘れてしまっているのか。私がおぼろげな記憶を詮索していると、安山は何かを思い出したような表情をした。


「何か思い出したのか?」


「いや、恐らく勘違いだ。あんたのスマートフォンの在り処を俺は知らない」


 そう言い切られてしまってはそれ以上追求できない。私を元の場所へ帰してくれるのは彼しかいないのだ。あまり機嫌を損ねさせるべきではない。けど、一応、彼が持っているという財布とベルト、それに時計に関して訊ねてみる。


「今すぐには返してもらえないのか?」


「あぁ。預かるのが決まりなんだ」


 いつの間にか私もこの台詞に慣れてしまっているらしい。決まりだと言われると納得せざるを得ない。


 ナスやきゅうりが実っている畑道を進む。周りにはちらほらと同じ広場へ向かう人が増えてきた。須崎の演説は人気があるらしい。


「なぁ。安山」


「なんだ?」


「私が、殺人犯に疑われていても構わないから帰して欲しい、と頼めば帰してくれるのか」


「あんたがそれでもいいなら、構わないが。夜まで待ちな。向こうに戻れるのは夜だけなんだ」


「そういう決まりなのか」


「そうだ。俺の仕事時間は夜だからな」


 そういえば久瀬もそんなことを言っていた。聞いてみたものの、帰りたいかと言われると微妙だ。昨日も殺人犯に疑われてひどい目にあった。自分たちのところの警察があんなものだと思わないが、逮捕されるのもゴメンだ。


 *



 着いた広場には人がごった返していた。三百人くらいは集まっているだろうか。人々の視線の先には選挙カーがあり、ウグイス嬢がまもなく始まる演説のアナウンスをしていた。


 ウグイス嬢の呼び込みと拍手に送られ、須崎が登壇した。ビシッとスーツを着こなして、自分の名前の入ったたすきを肩にかけていた。


「ありがとうございます皆様!」


 拍手を送る群衆に、須崎が勢いよく手を挙げて答える。すると群衆はさらに大きな拍手を送った。


「今の二段坂の状況は決して良いものではありません!」


 威勢のいい言葉に群衆は賛同の声を上げた。


「生活の基盤となる仕事や役割を、すべての人が持たなくてはいけないんです。住みよい町へと、幸せな町へと、変わっていくためには、現状役割をこなせていない人の救済、これが急務なんです!」


 須崎の雄弁な演説に群衆達は聞き惚れている。政策を必死に訴えかける須崎の姿は、屋敷で見た時の印象とは少し異なっていた。安山と私は広場の入り口から、それらを傍観していた。


「二段坂に暮らすすべての人に平等に役割が行き渡り、落ちこぼれなどと揶揄される人を失くしていかなくてはいけない。誰もが意味のある生活を送れるようにしなくちゃいけない! 私はそのために誠心誠意活動して参ります」


 また拍手が起こる。須崎は満足げな表情で頭を深々と下げた。


「さらに今日は、応援も駆けつけてくれています。この方です!」


 須崎に呼び込まれて、一人の男が選挙カーに登壇した。群衆たちはその男を知っているのか、さらに盛り上がりを見せた。


「絵本作家の栗田さんです!」


 頭にかぶった黒いハットを落とさないように手を添えて、栗田は丁寧に三度頭を下げた。そう言えば、少女のところへ久瀬が運んでいた絵本は、彼の作品だったはずだ。かなりの有名人らしい。「有名なのか?」と安山に訊ねれば、「この町で彼の絵本を読んだことのないやつはいない」と返ってきた。


 栗田は、須崎からマイクを受け取ると、いかに須崎という政治家が有能であるかについて語り始めた。


「須崎さんは、二段坂の新たなリーダーとなれる存在です。これからのこの町にとって、彼の政策は間違いなく財産になります。悩みや迷いなどない社会を作り上げてくれるはずです!」


 それからも演説は盛大に盛り上がった。須崎の支持者たちは、彼の話を至極真面目な顔で聞き入っている。単純な暑さも相まって異様にも思えるほどの熱気が広場に立ち込めていた。しばらくしたところで安山が、「そろそろ戻ろうか」と耳打ちしてきた。


 広場から離れて、来た畑道を戻っていく。遠くからは、まだ須崎の演説が聞こえてきていた。


「どう思った?」


 安山は丁寧にハンカチで額を拭いながら、私に問いかけてきた。立派に蓄えられた髭が、随分暑そうだ。


「まぁ、群衆は満足してるんじゃないか。みんなに平等に仕事を分け与えようって言うんだ。悪い話ではないんだろ?」


「そうだな」


 ――落ちこぼれと揶揄されている。須崎が語っていたのは、葉月や五郎のことだろうか。森川は二人をそんな風にいびっていた。


「彼は有望な政治家なんだろうね」


「みんなから期待されているらしい」


 あの支持者の熱狂を見れば、それは間違いないだろう。彼は政治家しては若さもあるし、具体的な政策も打ち出していた。それに、その政策は二段坂に住む人たちにとって理想的なものなのだろう。


 ただ、安山はどこか他人行儀な言い回しだ。


 私は水を浴びてキラキラと輝く畑のナスに視線を落としながらつぶやく。


「ただね。急に外からやってきた私が言うことに気を悪くして欲しくはないんだけど。気持ちのいい話ではなかったよ」


「どういうところが?」


「うーん。何かをゼロにしようだなんて極論を言っている人はあまり信用できないんだ」


 安山は「そうかもな」と言いながら、髭の奥に隠れた口端をわずかに緩めた。

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