(5)

 丘の上に建てられた少女の家は、綺麗な庭がある美しい洋館だった。だけど、豪邸というにはあまりにも小さい。オレンジ色の屋根と白い木目調の壁、テラスには子ども用のロッキングチェアが静かに佇んでいた。


 庭一面に咲き誇った紫陽花とトケイソウの花をかき分けて、久瀬は真っ直ぐに庭先に生えていた一本の木の方へ向かった。ちょうど、木が立っているところが丘の頂上になっている。


「ここは余計なものが何もないんだ」


 久瀬の呟きがそよ風に流されていく。それは独り言だったのだろう。彼はこちらの反応を気にする様子はなかった。


 木の下には数冊の絵本とおもちゃが並んでいた。直感的に、ここがそうだったんだと私は気がつく。緑の生い茂る梢から覗く青い空がやけに虚しく美しく思えた。久瀬が余計なものが何もないという理由もなんとなく分かる気がする。


「三日前だったっけ」


「そうだよ。今日みたいに綺麗に晴れた昼過ぎだった」


 久瀬は木箱から人形を取り出し、絵本と一緒に木の脇に並べた。倒れていたおもちゃも丁寧に起き上がらせる。それから彼は静かに手を合わせた。


 私も一緒に手を合わせた。心地よい風が丘を吹き越えていく。さわさわと揺れる花たちが、青い匂いを運んできた。それは生きているものたちの匂いだ。燦々と降り注ぐ陽の光を浴びて、命を燃やしている生き物の匂いなのだ。


 久瀬が顔を上げて、唇から生ぬるい息を吐く。


「あの一番太い枝からだ」


 久瀬が木を見上げた。指は差さなかったが、どれかはすぐに分かった。


「飛び降りたのか?」


「ううん。首を吊っていたらしい」


 らしいということは、久瀬は直接見ていないのだろう。だけど、彼の瞳にはその時の光景が今まさに映し出されているようだった。堪えきれなくなったように、久瀬は言葉を発する。


「苦しかったろうな」


 久瀬の言う苦しいは、首を絞めつけられ息が、という意味ではないはずだ。少女は息が出来ない苦しさの方が幾分かマシだと思ったはずだから。彼女が死に至るまでの苦しみを感じているに違いない。久瀬は感性が豊かなんだろうな。その光景と息の出来ない苦しさは想像できても、私にはそれを超え、死を選ぶほどの苦しさは想像できない。


「余程のことがあったんだろう、」


 それでも幼い少女が自ら命を絶ったという事実は私の胸を打った。現場を見せられれば尚更だ。幼い少女が自ら縄をこしらえる光景など想像するだけがひどい気分になる。


「幼い子が自分の首に縄をかけるなんてな」


「縄?」


 空を見上げていた久瀬の顔がこちらに向く。細い目が僅かに開いた。真上から僅かに傾き出した太陽が、大きなちぎれ雲に隠れて花畑に影を落とす。


「そうだ縄だ」


「縄ってなんだよ」


「縄は縄じゃないか」


「説明になってない」


 君に言われたくないさ、と言いかけて、私は両手を前に突き出す。ここで根負けすれば、彼らのことを悪く言った過去の自分に顔向け出来ない。手を丸めて「これくらいの太さで、これくらいの長さだ」と縄を手で表現してみる。


「棒ってことか?」


「棒はしならないだろ。縄はしなるんだよ。それで、何かを縛ったり結んだりするんだ」


 久瀬の首がコクリと六十度ほど傾いた。私は溜息混じりに続ける。


「縛ったり、結んだりを君たちはどうしているんだ?」


「君の言う、縛るや結ぶっていうはどういう意味なんだよ」


 まどろっこしくなって、「縄か紐を持ち合わせないだろうか」と思った私は、ふと足元へ視線を落とす。だけど、私が履いているのも、久瀬が履いているのも紐のないタイプの靴だった。それにベルトも昨日の朝から行方不明だ。


 そういえば、財布やスマホのことを安山に聞くのを忘れていることに気がつく。次に会った時に聞いておかなくてはいなけない。


「……分かったよ。この町には縛るって概念がないんだな」


「うーん。縛るっていうのは、人を自由にさせないってことだよね?」


 そう言われて昨日の久瀬の言葉を思い出した。


 ――彼女を縛り付けてしまっていた。


 縄の概念がなく、どうして自由にさせないことを意味しているのかは理解しかねるが、彼らはそういう意味でしか「縛る」という言葉を使わないらしい。


 縄と紐がなくては生活が不便だろうに。なんてことを思ったが、案外そうでもないのかもしれない。無いなら無いでそれほど困らない。世の中に溢れているものは大抵そうだ。昔はスマホなんてなかったのだから。もちろん初めから、という条件がつくだろうけど。


「それじゃ、僕はこの辺りで」


 そう言って、久瀬が手を上げた。


「どこか行くのか?」


「あぁ。仕事だ」


「本当に勤勉だな」


「よく言われるけど、当たり前のことだろ」


「そうかもな」


「夕方の仕事の準備をしなくちゃいけないんだ」


 まだ警官から受けた暴力への恐怖が身体に残っていて、一人になるのは心細かった。「私も着いていっていいか?」と聞けなかったのは、彼の顔が「これ以上着いて来るんじゃない」という顔をしていたからだ。手伝える仕事とそうじゃない仕事がある。足手まといや邪魔になるのは良くない。それに「怖いから一人にしないでくれ」なんて年下には言えなかったのだ。さらに言えば、こんなところまで誰かが来るとは思えなかった。


 丘を下っていく久瀬を見送る。少しだけゆっくりしてあの診療所へ戻ろう。須崎のところからこの丘まではそれなりに距離があった。久瀬は元気なやつだ。私が疲れてしまったのもあるが、せっかく登って来てすぐ下りるなんてもったいないじゃないか。


 再び太陽が顔を覗かせ、辺りを光で包み込んでいく。私は木の側に腰掛けた。この景色が美しいと感じるのは、ここで少女の命が絶たれたからだろうか。「この木は桜かな?」トケイソウの花に止まったテントウムシにそんなことを問いかけてみる。


 カラッとした風に花々と私の髪が揺れた。さわさわと葉擦れの音が重ねる。それに混じって声が聞こえた。


「この景色はずっと前から美しいよ」


 まさか、と思い私は目を丸くした。腰を曲げて、テントウムシに顔を近づける。青臭い匂いが鼻をくすぶった。驚いたテントウムシが、ばっと羽ばく。

 

「おじさん、そっちじゃない」


 そう言われて、私は振り返る。木の影から、可愛らしい少年がちょこっと顔を出していた。真っ白なシャツに真っ白な短パン。栗色の髪は少しカールして、くりっとした目元を僅かに隠している。背丈は、座った私が目線を少しあげなければいけない程度だ。


「残念だけど、この木は桜じゃないよ」


 少年は、少しだけ表情を暗くして続けた。


「けど。おじさんにとって特別になったのは、あの子の死のせいかもしれないけど」


 おじさんと言われるのが不服だったが、彼くらいの年齢ならばそう思うのも仕方ないと諦める。わざわざ訂正することでもない。


「驚いた。虫が喋ったのかと」


「おじさんって面白いね」


 少年は自分の口元に手を当てて、クスクスと笑いをこぼした。私はカッと恥ずかしくなり、表情に出さないように努めながら大人気ない言い訳を並べていた。


「虫が喋るなんて馬鹿らしいかもしれないけど、それをすんなり信じてしまうほど、私はおかしな出来事に巻き込まれているんだ」


 少年はかぶりを振った。


「ううん。別に虫が話すことをおかしいなんて思っちゃいないよ」


「面白いって言ったじゃないか」


「それはおじさんが他の人じゃ言わないようなことを言ったから」


「他の人って久瀬とかか?」


「うーん。あの人もたまに面白いこと言うこともあるよ。そうじゃない人たちだよ」


 私はこの町の住人を何人も知っているわけじゃないので、個人を羅列することはしなかった。それに久瀬が面白いところがあることは納得する。おかしなところかもしれないが。


「おじさんは町の外から来たんでしょ?」


「そうだ。安山って人に連れてこられたんだ」


「そうやってここにやって来る人の中にも面白い人はいるんだ」


 私は直前に来ていたという医者のことを思い出し、例として聞いてみた。


「私の前に来ていた医者も面白かったのか?」


「うーん。前の人はちっとも面白くはなかったね」


 少年の言う面白さとは、興味深いと言うよりもユーモラスというニュアンスなのかもしれない。私と久瀬にユーモアがあるかどうかは疑わしいが。可愛らしく足を弾ませて駆け寄って来て、少年は私の隣に腰掛けた。


「おじさんはここに何しに来たの?」


 彼の言う『ここ』とは、町か丘か。残念ながら、少女が死んだというのにこの町に連れて来られた理由を私は知らないままだ。


「久瀬の手伝いで来たんだ」


「ふーん」


 あまり興味のない答えだったのか、少年はつまらなさそうに喉を鳴らした。目元にかかった髪を指先にくるくると巻きつけながら、彼は空に向かって伸びる梢をじっと見つめていた。


「そうだ。君の名前は?」


「僕は風太ふうた


「風太か。いい名前だな。風太は何をしにここに来たんだ?」


 お返しとばかりに聞いてみる。


「この景色を見に来たんだよ」


 なんとも素敵な返答だ。可愛らしいその表情に憎ったらしさは微塵もなかった。


「風太はこの景色が好きなのか?」


「うん。きっと、あの子も好きだったんじゃないかな」


 少女が住んでいたという洋館の後ろには、今から世界を飲み込もうとしているような真っ白な入道雲が広がっていた。青空の果てまで続いていく紫陽花とトケイソウ。木の上に登れば、その奥に黄色い向日葵の絨毯まで見えたことだろう。


 この景色の中でなら天国へも行けそうだ。天国や地獄だなんて信じてはいないけれど。ここは天国みたいだと言われて否定するほど、つまらない人間ではない。ここは驚くほど穏やかで美しい。少女がここを選んだのはそういう理由かもしれない。


「私もそう思うよ」


「やっぱりおじさんは面白いね」


 寂しそうに目を細めて、風太はそっと草の生えた地面に手を添えた。


「いつかは僕もそうなるのかな」


「いつ訪れるか分からないことを恐れなくてもいいんじゃないかな」


 それは父の教えに反する言葉だったかもしれない。けど、少年に向かって「いつ死んでも良いように後悔しないように生きろ」なんて咄嗟には言えなかった。


「そうじゃないよ。人には死ぬより嫌なことだってあるはずなんだ」


「たとえば?」


「大人ってすぐに具体的なことを知りたがるよね。そんな人たちには分からないよ。みんな失くしてしまっているからね」


 風太の言葉は鋭さを持っていた。それを理解しないことは悪だと責められている気がする。


「だけど、君もいつかは大人になるだろ?」


「そうなんだろうね」


 風太は自分の膝を抱えた。そこに顔を埋める。かすかな彼の呼吸がそよ風のように聴こえた。大人が失くしてしまったもの。それはあまりにたくさんある。私が大人になろうと決めたのはついこの間のことだ。


「私にも風太の気持ちは分かるよ」


「どうだろう。僕の気持ちを分かってくれるのは、かえでだけだから」


「楓? 風太の友達か?」


「そうだよ」


 顔を腿に埋めたまま風太は頷いた。白いズボンのお尻で緑がすり潰されている。それは植物たちの血液だ。そして、この植物たちはここで首を吊った少女の命をその根から吸い取ったのだ。だから美しいのだろう。


 風太が立ち上がった。その目には光るものがあった。恥じらいもなく目元を拭い、くしゃっと笑みを浮かべる。


「じゃあね」


 私は彼に手を振り返す。あまりに軽やかに花畑の中を駆けていく白い少年の背に、翼でも生えるんじゃないだろうか、と私は目をこすった。

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