(4)

 須崎の家は、やはり昨日の夜に見えていた屋敷だった。立派な石垣は過去にかなりの財を成し遂げた家系にしか作れないものだろう。大きな門の横についた呼び鈴を鳴らし、久瀬は返事もないうちに入っていく。「勝手に入るのか?」とき聞けば、久瀬は「呼び鈴は鳴らしたさ」と答えた。


 玄関の方へ行かずに、久瀬は庭の方へと回った。大きな池には無数の鯉が泳いでいて、縁側の隅で風鈴がリンリンと涼しげに鳴っている。雨戸を開けながら、女性が顔を出した。歳は私より若く見えた。葉月と変わらないくらいだ。


「あら、久瀬さん」


「こんにちは」


「もうそんな時間だったんですね。うっかり準備を怠ってました。少しお待ち下さい」


 そう言って、奥へ下がろうとしてところで、彼女は久瀬の後ろにいた私に気がついた。見ない顔だと目を丸くする。それに気づいた久瀬が答えた。


「こっちは佐々木。安山が連れて来たんだ。暇だからお手伝いをしてくれいるんだよ」


「あぁ、お手伝いですか。それはご苦労さまです」


 丁寧に頭を下げて、彼女は奥へと消えていった。物腰が柔らかく清楚で綺麗な人だ。葉月の取られたという人は彼女なのだろうか。そうなら葉月が悔しがるのも頷ける。


「葉月が取られたっていうのは彼女?」


 あまり大きな声で訊くわけにもいかず、私は久瀬に耳打ちをする。


「そうだ。小さい頃からずっと好きだったらしいんだけど、須崎に目をつけられちゃ仕方ない。表向きは両思いだと言ってあるが、半ば強引な結婚だったそうだ」


「強引というと?」


「須崎の家は地主でもあるんだ。彼女の家は代々、須崎のところから土地を借りていてね。そこの賃料やら何やらと、結婚を断れないように仕向けたらしい」


 恋恨みというのはどうも理解し難いと思っていた私も、その話を聞いて葉月に同情の気持ちが湧いてきた。こういう類の話は他人のことでも聞いていて気持ちの良いものではない。


「須崎って人はあまり尊敬出来ないやつなんだな」


「少なくとも葉月にとってはそうなんだろうね」


 久瀬が肩をくすませたところで、縁側から「いやー、すまん、すまん」と低い声が聞こえて来た。


 顔を出したのは、五十過ぎの男だった。


「構わないよ、須崎」と久瀬が言ったので彼が須崎らしい。


 先ほどの女性の旦那と思えば歳を喰っていると思うが、政治家だとするなら若い方だろう。着流しに髪はボサボサだが、ひげは綺麗に処理されていて清潔感のある男という印象を受けた。卑劣な行為で女を自分のものにするような外道には到底思えない。


「私も妻も時計を見間違えていてね。これが今日の分だ」


「時間に余裕はあるよ。確かに受け取った」


 須崎が久瀬に手渡したのは小箱だった。小箱の上には、ちょこんと一冊の絵本が乗っている。


「絵本の方は、今日も栗田くりたのか」


「もちろん。彼がこの町で一番優れた絵本作家だ」


「それは違いないね」


 久瀬がちらっと、納屋の方を見遣った。庭が広すぎてあまり良く見えないが、山積みにされた薄い書籍と焚き火のあとが残っている。久瀬の視線に気づいたのか、須崎が困ったように眉根を八の字にして溜息をもらした。


「彼はどうもくどくてね。気がつけばあんな数になってしまった。いくら突き返しても聞いちゃくれないんだ」


「取り合ってあげればいい。満足するんじゃないか?」


「彼を満足させるのは私の仕事じゃないだろ」


「そうかもしれないけど」


「それに私はすべてのものをフェアに見ているからね。駄作な絵本は駄作としか評価できない」


 彼の言いっぷりは立派な評論家だ。肥えた自分の目に余程の自信があるらしい。そこにはきっと裏打ちされた確固たる理由があることだろう。山積みにされた本は、誰か別の人が描いた絵本なのかもしれない。


 私には絵本を見定める力などないので、小箱の上に置かれた絵本を手に取って読んでみるなんてことはしないが。読んだところで「これは素晴らしい作品だ」と訳知り顔で同調することしか出来ないからだ。価値も分からないのに評論家気取りで批判するのは、あまり性格の良いものだとは思えない。


「それじゃ、運んでおくよ」


「あぁ。また明日もまたよろしく頼む。あぁそれとまた殺人があったそうじゃないか。君たちも気をつけるんだぞ」


 軽くお辞儀をして庭をあとにする。玄関では須崎の奥さんが丁寧に見送りをしてくれた。



 *



 来た道を戻り、今度は商店街を越えて逆の道を進んでいく。建っている家はまばらになっていき、次第に舗装されていない道になった。


 明らかに人が住んでいる様子のない方へ向かうものだから、「どこにその荷物を運ぶつもりなんだ?」と久瀬に訊ねてみる。


「この荷物は少女のところへ運ぶんだ」


「少女のところだって?」聞き間違いかと思った私の眉間に皺が寄った。


「そうだよ」


「いや、少女は死んでしまったんだよな?」


「そうだね」


「だったら、どうしてわざわざ運ぶんだ?」


 問いかけながら、これは少女への供え物なんだ、なんて答えを私は期待していた。亡くなった少女のために絵本を届ける、素敵なことじゃないか。たとえ須崎は政治的なパフォーマンスでやっていたとしても、運んでいる久瀬に心があれば少女だって浮かばれるんじゃないだろうか。だけど、そんな私の期待を他所に久瀬はお決まりの言葉を口にした。


「そういう決まりなんだよ」


 またこれだ。いい加減その言葉に私がうんざりしていることに気づいて欲しい。


「昨日も久瀬はこうやって荷物を運んでいたのか?」


「あぁ」


 私は呆れを通り越して怒りを感じた。昨日の森川もそうだが、少女が死んでいるというのに彼らは淡々と仕事をこなし過ぎている。この状況が異常だと誰も思わないのだろうか。仕事だからと与えられた役割に疑問を持たない。少女の弔いをすることはないのだろうか。いなくなってしまった悲しさを誰も感じていないのだろうか。


 おかしい、君たちは間違っている! そう口走りそうになった。私の口が開くよりも僅かに早く、久瀬が言葉を発する。


「でも気は進まないんだ」


 それは期待していたはずの言葉だったのに、私の心は満たされなかった。ただポッカリと心に穴が空いたように虚しくなる。さっきまで少女の死を悲しめと責めていたはずなのに、彼に少女の死を憂いる心があると知り、今度は、君は気にする必要はないと思い始めている。


「でも、少女はその絵本を喜んでくれるんじゃないか?」


「だけど、僕らが奪ったんだよ」


 それは久瀬に初めて会った朝、彼が言っていた言葉だった。「それは命のことか?」なんて的はずれな気がして訊けなかった。確かに会話の流れ的に、命のことを言っていたのかもしれない。だけど、責任を感じて、そう言っているなら、「命を奪ってしまったんだ」というはずだ。


 それに最初の日に、「何を奪ったんだ?」と私が訊ねると、彼は「分からない」と答えた。久瀬は時折、常識的なことを知らないおかしなやつだが、明確に奪ったものがあるなら、それが分からないほど馬鹿じゃないはずだ。きっと抽象的な何かなのだろう。


 それに彼の言葉には後悔が宿っている気がした。『後悔をしないように』そんな父の言葉を思い出す。久瀬は少女から何を奪ったと後悔しているのだろう。


「奪ったものは大事なものだったのか?」


「分からないけど、僕らも昔は持っていたものだった気がすんだ。だけど、僕らは失くしてしまった、だから何を奪ったのか分からないんだ」


 久瀬の荷物を抱える腕に力が込められた。それを見て、私は何も言ってやれなくなった。傷心の男にかけてやる気の利いた言葉を私は持ち合わせていないのだ。


 気がつくと私の中にこみ上げていた怒りは、しゅんと鳴りを潜めていた。そもそも、あの怒りは身勝手極まりないものだった。知らない町の知らない少女に対する同情を、怒りにすり替えていただけなのだ。愚かなことだったと、心の中で自嘲する。


 しばらく歩いたところで、小高い丘に差し掛かった。丘の頂上まで続く緩やかな坂道の脇には、たくさんの向日葵が咲き誇っていた。私の胸元ほどまである花々たちが、まるで青い空の彼方まで続いているように見えた。


「ここは綺麗なところだな」


「外から来た人の中には、今の君みたいに言う人がたまにいるよ」


「たまになのか」


「君の前に来た医者は、そんなことこれっぽっちも言わなかったね」


 あまり景色に感動する方ではないが、雄大な向日葵畑に私は心を踊らせていた。この景色を見て、「綺麗だ」と思わない人がいることを不思議だと思うくらいには。


「久瀬はこの景色を綺麗だと思わないのか?」


「どうだろう。以前は思っていた気がするよ。だけど今は普通かな」


 ここに住んでいる人からすればそんなものかもしれないな、と私は思った。緩やかな丘の頂上が、まるで地球の果てのように見える。小さな惑星に降り立ったような気分だ。どこまでも続く黄色い絨毯の上を寝転がりたい衝動にかられたものの、大人気ないことはよせと理性が止めてきた。

 

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