(3)

★両親


『いつ死んだって後悔しないように生きなさい』


 それは父が私に教示した数少ない教えの一つだ。


 その教えが、犯人をこの手で殺してしまおうかと感情的になった私を落ち着かせてくれた。復讐だなんて両親が望むとは思えない。


 父の教えに従えば、父は後悔なんてしなかったはずなのだ。少なくとも、後悔がないように努めていたのは間違いない。それなのに私が「父はまだ生きたかったはずだ」なんて感情的になるのは、父が己の信条を貫けていなかったと認めるようなものではないだろうか。


 犯人は法律により裁かれた。判決に異論はない。


 ただ明らかになったのは、私が現実に向き合わず、父の教えを全うできていなかったという事実だけだ。



☆私


 葉月が服を持って戻って来たのは、「俺はもう帰るぞ」と言って安山が帰ってからしばらくしてのことだった。


 葉月が持ってきたスウェットは私のサイズにぴったりだった。路上で着替えることを一瞬躊躇したが、服がボロボロの状態でいることもあまり変わらないことに気が付き、その場で着替えた。


 ボロボロになった私の服を畳みながら葉月が満足そうにこちらを見る。


「うん。よく似合ってるよ」


「そうか。ありがとう」


 スウェットを似合っていると褒められても嬉しくはなかったが、彼に悪気はなさそうだったので頷いておいた。


「にしても物騒になったもんだな。殺人なんて。それも連続殺人だ」


 五郎は口に酒を含みながらそう言った。連続殺人というからには、何か根拠があるのだろう。そう思い私は訊ねる。


「連続というと?」


「確か、前回も絞殺だったろ?」


 私に知る由もなく葉月の方へ視線を向けた。「確かそうだったはず」と彼は頷く。


「それなら尚更、私は犯人であるはずがない。前回の殺人が起こったという日、私はまだここに来ちゃいないんだから」


 そんなこと彼らに訴えても仕方ない。けど、言わずにいられなかった。葉月が落ち着けと言わんばかりに手を突き出す。


「佐々木が犯人じゃないことは分かってるよ。安山も言ってたろ。手の傷のせいで殺せないって」


 幸か不幸か、手首を痛めたおかげで命拾いをした。記憶にない傷に感謝するのは不思議な感じがする。「それにだ!」と葉月が語気を強めた。


「僕は、須崎すざきが怪しいと思うんだ!」


 それは推測というよりも願望に近いニュアンスだった。何か確信めいた推理が働いたわけじゃないことは明白だ。


「須崎?」


「そうだ須崎だ。きっとあーいうやつが殺人を犯すんだ」


 ふーん、と私は適当な相槌を打っておく。詳しく聞いたところでろくな返答は期待できそうもない。それよりも理不尽な暴力を振るってきた警官への苛立ちがこみ上げてきた。


「……それにしても、あの警官は本当に捜査をしているのか? 一昨日と今回の殺人に類似点があったなら誰だって同一犯を疑うだろ? それを私だと決めつけてこんな暴力を」


「捜査をしているかどうか怪しいところはあるよ。そもそも事件なんて滅多におこりゃしないし」


「滅多に起こらないからと言って適当なことをしていい理由にはならないだろう」


「それはそうだけどさ」


「よくあんなのに警官をやらしているな」


「仕方ないよ。あれが彼の仕事だから」


 お決まりの台詞だ。これを言われたら、泣き寝入りするしかない。その言葉を聞いて、自然と私の怒りは収まっていた。


 話に飽きたのか、五郎と葉月は帰って行った。それに入れ替わるように、どこからともなく久瀬が現れた。


 彼は今日も綺麗なスーツを来ている。相変わらず顔は狐にそっくりだ。


「どうしたんだ佐々木? 顔に傷が出来てるぞ」


 私の顔を見るなり彼は痛々しく顔を歪めた。


「警官にやられたんだ」


「あぁ……」


 久瀬は納得して「そうか、それは災難だったな」と言った。


「災難? そんな言葉で済ませてほしくないな。殺人犯に間違え……いや殺人犯だと決めつけてかかってきたんだ」


「ごめん、ごめん」


 心のこもっていない謝罪を口にする。それから「まるでボクサーみたいだな」と言った。


「ボクサーは知っているんだな」


「失敬だな。ボクサーくらい分かるさ」


 タクシーを知らなかったくせに、と私は心の中でぼやく。口では「私がボクサーならもっと上手く反撃してたさ」と気の利いたことを言っておいた。


「警官に手を上げるのは利口ではないね。そこで別の罪に問われそうだ」


「確かにそうかもしれない」私がボクサーじゃなくてよかった。


「なにはともあれ、彼は一度決めつけたらそうだと信じこむ嫌いがあるからね。災難だったのは同情するよ」


 私が少し不機嫌になったことなど気にする素振りもなく、久瀬はすぐに声を明るくした。


「それよりだ。佐々木、朝ごはんは食べたかい?」


「あぁ、昨日の残りだったけど」


「そうか。もうそろそろ在庫はなくなりそうかな」


「そうだな……」


 私は冷蔵庫の中を思い出す。確か、おにぎりがいくつかあっただけだ。消費期限は過ぎているだろうけど、一日や二日どうってことない。カップ麺も確か二つほどあっただろうか。


「まだ少しだけ残ってるよ」


「うーん。さすがに今日もてばいい方かな。僕はまだ朝ごはんを食べてないし。佐々木は料理できる?」


「まぁ人並みには」


「そうか。それじゃ適当に食材を持っていくよ。さすがにコンビニ飯だけじゃ飽きちゃうよ」


 もしかして、久瀬は今からあの診療所に朝ごはんを食べに行くつもりなのだろうか。昨日は朝も夜も一緒に食べた。今晩もあそこに来るつもりだとすれば、彼は私に晩ごはんを作らせようとしているのか。


 そう思ったが、材料費はすべて彼の負担だ。ご飯を作るくらいしてもいいのかもしれない。


「久瀬は今からどうするんだ?」


「僕は君のとこで朝ごはんを食べてから仕事さ」


 やはりあそこで朝ごはんを食べるらしい。


「仕事?」


「そうだ。仕事だ」


 彼は勤勉だなぁ、と私は感心する。私の世話に飽き足らずに、彼はいくつも仕事を掛け持ちしているらしい。


「どんな仕事なんだ?」


「どんなって言われると難しいな。須崎って人のところへ言って、荷物を受け取る。それを運ぶんだ」


 簡単に言えば、宅配や郵便なのだろう。私がそう言うと、「タクハイ?」と久瀬は首をかしげた。人の荷物を運んであげる仕事だ、と説明してから、須崎という人の話を葉月がしていたことを思い出す。


「そう言えばさっき、葉月が須崎って人のことを話してたよ。あいつが殺人犯なんじゃないかって、決めつけてた」


 あー、と久瀬が喉を鳴らす。「葉月ならそう言いそうだ」と。


「須崎は殺人をするような人なのか?」


「うーん。須崎はそんなこと出来るたまじゃないと思うよ」


「それじゃ、なんで葉月はあんなことを?」


「葉月は須崎を恨んでるからじゃないかな」


「恨み?」


 殺人の動機っぽい響きに少し寒気がする。今回の事件に直接関係はないだろうけど、事件のあとにそんな言葉を聞くのはあまりいい気分ではない。


「あぁ。好きだった女を取られたんだ」


 その寒気はすぐに収まった。いや、人が人を殺めるのに十分な動機なのだけど。見た目が幼い葉月が、そういう感情を抱いていることが愛らしく思えたせいだ。


「佐々木も来るかい? タクハイのお手伝い」


 どうしようかと迷ったが、私は久瀬に着いていくことにした。一人になるのが心細かった。またあんな目に遭うのはゴメンだ。


 *


「須崎っていうのはどんな人なんだ?」


 商店街を抜けて、長い畦道を歩いていく。左右どちらを見渡しても一面田圃だった。久瀬の足取りは、ちょうど私が夜道をずっと歩いていた時に山の方に見えた大きな屋敷の方へ向かっている。 


「須崎は政治家だ」


「政治家か」


「佐々木は、政治家は好きかい?」


 何気なく聞いてきた久瀬に、深い意図はないのだろうけど、センシティブな質問だと思った。素直に答えれば、無関心ではいられない事柄に好き嫌いもないと私は思っている。就職活動は好きか聞かれているようなものだ。だけども、関わらずに済むなら越したことはない。


「好きという言葉は政治家に向けて使うべきじゃないと思う」


「それもそうかもしれない。じゃあ聞き方を変えるよ。政治に興味はあるかい?」


 興味がある。と答えたところで、到底、久瀬が難しい政策について話し出すとも思えなかったので、「ないこともないかな」と曖昧な返事をしておく。何か話したい話があれば、どうぞお好きにというメッセージを込めてだ。


「珍しいね。佐々木はまだそれなりに若いだろ?」


「それなりにだけどな」


 二十八という年齢は、三十間近と捉えるのか二十後半と捉えるのかで、随分印象は変る。少なくとも私は三十間近だと現実に追い詰められ役者の道を諦めたのだ。


「僕らの町では若者の政治離れが問題になってるんだ」


「政治っていうのは、おおよそ若者は興味がないものなんだよ」


「でも佐々木は興味なしってわけじゃないんだろ?」


「言い訳だよ。いつか次の世代に咎められた時に、私はちゃんとしていたっていうポーズを取りたいだけなんだ」


「ふーん。佐々木って意外と賢いんだ」


 意外という言葉は侵害だ。だが、自身を賢い方などとは思っていないので、そこまで怒りは湧いてこない。この考えは父が言っていた後悔しないための生き方として正しいのか甚だ疑問だが。


「政治には関心を抱いた方が良いのかな?」


「まぁ、あんな警官を警官としているうちは改革が必要じゃないかな」


「そうかもしれない」


 久瀬は呑気にそう言って、口笛を吹き出した。そのメロディは私の知らない曲だった。 

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