(2)
安山は中肉中背の男だった。あまり綺麗な服装をしていないせいか、歳はそれなりに老けて見える。六十歳手前から五十過ぎだろう。白髪交じりのひげを蓄え、古びたセカンドバッグを持っていた。
「なんだよ、安山のじいさん」
「いや、なんだ。騒がしいから寝てられなかったんだ」
確か安山は夜の仕事の為に夜型で昼間は寝ていると久瀬が言っていた。警官はまだ私の上に馬乗りのままだ。
「そうか、起こして悪かったな。殺人だったんだ。だが、もう無事事件は解決した」
警官は恐らく本気のつもりなのだろう。私を陥れるだとか、誰かをかばう為にやっているだとか、そんな考えを持っているようには見えなかった。ただ素直に私を犯人だと思いこんでいる。
「私はやってないぞ」
「煩いぞ! いい加減に諦めろ」
警官がまた私を押さえつけようとしたのを、安山が手で制した。身体を屈めて、顔を私に寄せる。
「あんた向こうから俺が連れてきたやつだな」
「そうだよ。あんたに連れてこられたんだ」
「本当に、お前がやったのか?」
「一体、何のためにだ」
安山の目が私をじっと見つめる。瞳の深くまで黒く輝きのある目だった。私の問いには答えず、安山は顔を上げて警官に告げる。
「本当にこいつが犯人なのか?」
「そうだ。こいつで間違いない。金が目当てか、誰でも良かったか。殺しを趣味にしてるなんて線もある」
「それじゃ、なんの確証もないってことじゃないか」私の嘆きは葉月が代弁してくれた。警官の目が鋭くなり、葉月の方へ向いた。勇気を振り絞ってくれただろう葉月は、その目に怯えてすっかり小さくなる。
「まぁ待てよ。葉月の言ってることも正しいだろ? 現場はどうなってたんだ」
「現場がどうってどういうことだよ」
「死体の状態とかだよ。どうやって殺されていたんだ?」
警官は安山に問われて、考え込むように手を顎に添えた。思い出そうとしなければ思い出せない程度にしか、現場の状況を記憶していないらしい。
「森川は家のリビングに倒れていたんだ。それと……、そうだ! 首を絞められていたんだ。なにかこう、細く長い何かだ」
「そうか。首を絞められていたか」
安山は満足そうな顔をする。それから声を明るくして続けた。
「それならこいつには犯行は無理だ」
「なぜ無理なんだ」
「絞殺するには、それなりに力がいるだろう?」
「そうだな。森川は男だ。女が背後から襲ったとしても応戦は出来ただろうな。だから犯人は男なんだ。どうだ、この男が犯人じゃないか」
いくつも重要な工程を飛ばした乱雑な推理だ。私は呆れて声も出なかった。
「だが無理なんだよ」
「だからどうして無理なんだ?」
「この手を見てみろ」
安山が私の腕を掴んだ。負傷していたところだ。ズキッとした痛みに私は歯を食いしばる。
「これは、俺がこいつを連れてきた時、痛めたものだ。この状態で森川の首を絞められると思うか?」
警官は押し黙った。どうやら反論出来ないらしい。それを見て、すぐに五郎が声を上げる。
「ほら、三時には佐々木は帰ってたって言ったろ!」
「クソッ」と吐き捨てて、警官は私の背中から立ち上がった。腹いせなのか、乱暴に地面を蹴りつけて不機嫌そうに去って行った。
「災難だったな」
安山はそう言いながらこちらに手を差し伸べた。私はその手を取って「助かった」と返す。引き起こされた私は、警官の暴力のせいですっかりボロボロだった。地面に倒され押さえつけられ、Tシャツが破けてしまっていた。
「あーもー、服がぐちゃぐちゃだよ」
こりゃひどいもんだ、と葉月が顔を歪めて言葉を続けた。
「僕の服を持ってきて上げるから着替えな。背格好は変わらないから入ると思うんだ」
「それは助かる。ありがとう」
私のお礼を聞くと、葉月は嬉しそうに口端を持ち上げ、上機嫌で服を取りに帰った。彼は人がいいらしい。
葉月が去ったあと、「それにしてもあの警官はなんなんだ」と私は腹を立てる。
「あいつは、あーいうやつなんだ。悪かった。俺からの謝罪でここは流してくれ」
助けてもらった手前、それ以上は何も言うことが出来ず、私は渋々、安山の言うことに頷いた。
それはそれとして、彼には聞かなければいけないことがある。
「安山だったな?」
「そうだ」
「どうして私をこんなところに連れてきたんだ」
「なんだ久瀬から何も聞いていないのか?」
それじゃ不十分だからあんたに聞いてるんだよ、と思ったが、頼みごとがあるのはこちらだ。感情を押し殺し、冷静に言葉を探す。
「連れてくる予定じゃなかったというのは聞いた」
「それが俺の回答だ」
「だったら帰してくれよ!」
思わず声を張り上げてしまった。安山の眉根が少し下がる。まるで年老いた犬のように見えた。
「帰りたいなら帰してやる」
「ほんとか」
「あぁ。ただ今すぐには無理だ。片道五時間はかかる」
五時間かかるなんて大した問題じゃない。少なくとも、ここから出られないよりは何倍もマシだ。
「構わないさ。帰してくれよ」
「もしかして、あんた端に行こうとしたのか?」
端だと? 安山は私をからかっているのかと思ったが、まるでこちらを見定めるような目つきをしていた。
「そんなものあるのか?」
「いや、残念ながらあんたが見て感じたことは真実だ。この町に端は存在しない」
うっかり私は口を滑らせたが、夜出歩いていたことは、警官にも五郎にもすでに見られている。それに帰れるなら問題はない。
「いいから帰してくれよ」
「そうか……おすすめは出来ないんだが」
安山はそう言うと、新聞を一部手渡してきた。
「なんだこれは?」
「今朝、俺がとってきた新聞だ」
とってきた、とは。盗んできたという意味なのか、買ってきたという意味なのか。どちらでも構わないのだけど。確かに日付は今朝の朝刊だ。安山はある記事を指差した。
「この記事がなんなんだ?」
「あんた本当に覚えちゃいないのか? よく見ろ」
私は記事に目を通す。
それは地方欄の小さな記事だった。ミナミで死後十数時間経過した遺体がゴミ袋の中から発見されたらしい。殺されたのは二十代の女性だ。
「全く身に覚えがないんだが」
「本気言ってるのか? その写真の女だぞ。記事もよく見ろ」
「あぁ、知ってる女性ならすぐに……」
そう言いかけて、私はハッとした。記事に載っていた被害者の女性の顔に見覚えがあったからだ。
「あの夜の風俗嬢か?」
酔っていたせいでハッキリとは覚えていない。だけど、確かこんな顔をしていた気がする。
「そうだ」
「だが、なんだって、その風俗嬢が殺されたからって私が帰るのをおすすめできないんだ?」
「あんたが彼女の最後の客だったからだ」
一瞬、安山の言いたいことが分からなかった。私が最後の客だから何だというのか。鈍い私に安山は空咳を飛ばし続ける。
「あんたは、この女が殺された夜から行方不明だ」
そこでようやく私は勘づいた。なんてことだ。一日に二度も殺人犯と間違われるだなんて。
それでも構わないから帰してくれと言えたかもしれない。私は殺人なんてしていないし事実無根だ。調べてもらえば疑いは晴れる。本当に晴れるのだろうか? ここをなんて説明する?
それに先ほど受けた理不尽な傷が帰るのを躊躇わせた。
もうあんな風に痛目に遭うのは嫌なのだ。
★少女
「今日のプレゼント、ユキちゃんは喜んでくれた?」
少女の話を一通り聞いて、アタシはそう訊ねた。すると、少女は「うん」と長い髪をなびかせ、ニッコリと笑ったの。
少女の手には、折り紙の鶴が二羽乗っていた。それは、ユキちゃんの為にアタシと一緒に作ったもの。
アタシはその折り鶴を指差して笑みを浮かべた。
「良かったね」
「ユキちゃんが嬉しいと私も嬉しい。お姉さんもお友達が嬉しいと嬉しいでしょ?」
「そうだね。お友達が嬉しいとアタシも嬉しいよ」
アタシがそう言うと、少女はとっても喜んだ。
「ねぇ、お姉さんは明日も来る?」
「うーん」
少しだけ悩んだアタシに、少女はとても悲しい顔をしたの。だから、アタシは出来るだけ優しい顔をして答えた。
「分かった。明日も来るね。だけど、あなたにはユキちゃんがいるでしょ?」
「うん。そうだけど。お姉さんも私のお友達。ユキと三人で一緒に遊びたい」
それは出来ないよ。なんて喉元まで出かけた言葉をアタシは飲み込んだ。それから大人気ない自分に問いかけた。「それは本当に無理なこと?」アタシを見つめる少女の目はとっても真剣だった。きっと無理なことなどきっとないのに、大切なものを忘れていたアタシは無理だって決めつけていたのね。
自分にはないものを彼女は持っている。そう思うだけで、アタシは少しだけ心が温かくなった。
☆刑事
「ご友人で間違いないですね?」
「はい、そうです」
「この日、佐々木さんと別れたのはいつ頃ですか?」
「店を出てすぐです。時間は二時半頃だったと思います」
「これまでにあの店にいかれたことは?」
「いいえ一度も……あいつも初めてだったと思います。あーいう店にはいかないタイプなんで」
「そうですか」
行方不明者というのは珍しい話ではなかった。人がいなくなる理由なんていくつも考えられる。殺人、拉致、誘拐であれば捜査もしようがあるが、借金が苦になっただとか、異性関係や家族と縁を切りたいだとか、世間に対して後ろめたいことが出来ただとか、そう言った類のものは捜査のしようがない。
とは言え、行方不明の殆どが自殺だ。この世界に飽きたなんて、言われても正直、知っちゃこっちゃない話だが。身元の分からない遺体など、一年間に数え切れないほどあがる。
常田は入り口近くのマガジンラックに目がいった。胡散臭い週刊誌に『超常現象・神隠しにご用心』などと戯言が並んでいた。
「刑事さん。あいつは疑われてるんですか?」
「どうですかね。そういうことは口外出来ませんので」
常田は写真をポケットにしまった。友人を心配するのは不思議なことではない。それにかくまっているのなら、あまりにわざとらしい言葉だ。この男は本当に何も知らなさそうだ。常田の長年の刑事の勘がそう告げていた。
「今日はわざわざ出向いてくださりありがとうございました。ご友人の捜索は引き続き行いますので」
「あ、あの」
常田が立ち去ろうとすると、男が呼び止めてきた。
「佐々木をお願いします。あいつはそういうことを出来るやつじゃないです」
「そうですか……」
他人へのイメージなどその人の創作でしかない。そうであって欲しい。そう願うばかりに、人は相手に理想を押し付ける生き物だ。あの雑誌の神隠しだってそうだろう。そうであって欲しいのだ。そうでなくては都合が悪いから。本当のことなど誰もしらないのに。
常田は男に向かい軽く頭を下げる。会計を済ませて店をあとにした。
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