二章

(1)

☆私


 目を覚ますと相変わらず例の診療所だった。夢なんじゃないかと少しばかり期待したけど、どうもこれは現実らしい。手首はまだ痛む。立ち上がるのも一苦労だ。


 冷蔵庫から久瀬が昨日買ってきたものを適当に取り出した。サンドイッチを口に放り込み、パックの牛乳で流し込む。昨晩かなり歩いたせいか、足は少しだけだるかった。だまし絵みたいに、またここへ戻って来たなんて、できれば嘘であって欲しかったが、残念なことに自分の身体が真実だと告げている。


 歩き続けた愚行を無理やり肯定的に捉えるなら、私を縛り付けない理由が明らかになったくらいのものだろう。これまでに連れて来られた人たちが逃げ出さなかったのは、いくら逃げても逃げられないからだ。山を越えるだとか、別のルートも試したものがいるかもしれないが、今の私にその気力はなかった。


 とはいえ、本当に私をこの町へ閉じ込めるつもりなのだろうか。久瀬は「安心してくれ」と言った。ここへ連れて来られた者は、「直に出られるよ」とも。


 私をここに連れてきたのは安山という男らしいから、彼に頼めばなんとかしてくれるかもしれない。少女に会うことが私の仕事ならば、その少女がいなくなった今、私は役目を果せないのだ。久瀬が来たら会わせてもらえるように頼もう。そう思ってしばらく過ごしたが肝心の久瀬は現れなかった。


 しびれを切らした私は、商店街の方まで出てみることにした。葉月か五郎でも安山の居場所くらいは知っているはずだ。二人が頼りないなら森川でもいい。


 だいたい私の世話が仕事だと言うなら、久瀬にはしっかりと仕事をしてほしいものだ。少し憤慨しながら、私は診療所の扉を閉じる。ポケットに手を伸ばし鍵がないことに気づいた。同時にここを戸締まりする意味もないと溜息を吐き、商店街の方へ向かう。


 *


 商店街はやけに騒がしかった。野次馬のような人だかりが出来ている。その輪の端に葉月がいるのを見つけて声をかけた。


「なにかあったのか?」


「あぁ、佐々木。大変なんだよ」


 気弱そうな顔をして、彼はなんとも心細そうな声を出した。「それがさ、」と彼は続ける。


「森川が殺されたんだ」


「殺された?」


「そうだよ……だから、朝から大騒ぎさ」


 野次馬たちは、商店街にある一件の建物を中心に半円を描いていた。群衆が取り囲んでいるのは、「BANK」と書かれた建物だ。どうやらあそこが銀行員である森川の家らしい。なんとも分かりやすい。


「殺されたってどうして?」


「分からないよ……」


 それもそうか、と私は一人納得する。殺された理由を知っているのは犯人と被害者くらいだろう。仮に葉月が知っていても答えるはずない。


「それにしても殺しだなんて物騒だな」


 野次馬が見つめている建物の中で人が殺された。それなのにどうもピンとこない。殺人という言葉にもう少し恐れがこみ上げてくるものだと構えたのに。たった一枚の壁の向こうというだけで、これほど現実感はなくなるものらしい。


「本当に物騒だよ。立て続けだなんて。これで二人目だ」


「立て続け? 二人目? この前にも殺しがあったのか?」


「そうだよ。一昨日も殺しが起こったんだ」


「一昨日っていうと少女が死んだっていう?」


「いや、あの子が死んだのは三日前だ」


 そうだ、久瀬に一昨日と説明されたのは昨日のことだった。疲れているせいか、妙なことが続きパニックになっているせいか、どうも時系列が上手くまとまらない。


「すまない、もう一度いいか? 殺しが起きたのはいつだって?」


「一昨日の夜中さ。その時もこんな風に野次馬だらけになったんだ」


「こんな風にというとこの辺りで殺人が起きたのか?」


「うん。あの家だ」


 葉月が指差したのは、商店街の中にあった一軒の民家だった。


「あそこの主人が殺された」


「犯人は?」


「それがまだ分かってないんだ」


「こんな狭い町なのに?」


 商店街を中心にポツポツと住宅街や民家はあるものの、決して大きな町には思えなかった。それに、逃げようとしたところで、昨晩の私のようにぐるぐるとループしてしまうだけだ。逃げられやしない殺人犯を捕らえるのは難しくは無さそうだ。


 ただ素直な感想を言っただけだったのだが、気を悪くしたのか、葉月は少しだけ眉根に皺を寄せた。「悪気はなかった」と私が謝れば、気を損ねたまま葉月が答えた。


「そりゃ広くはないよ。君の住んでるところはもっと広いだろうね。だけど、ここが僕らの世界なんだ」


 私は訊ねずにはいられなかった。昨日の久瀬もそれと近しいことを言っていたが、どうも酒のせいで思考が上手く回っていなかった。


 ――――僕たちはここから出られない。


 私を帰してくれ、という質問に久瀬はそう答えた。あの回答も今の葉月も、自分たちは外から隔離された存在だと告げている。


「ここは一体なんなんだ? 僕らの世界? ここは日本なんじゃないのか?」


「確かにここは日本だよ。だけど上手く説明出来ない。安山なら答えられるかもしれないけど。彼が唯一、ここと外を行き来出来る人間だから」


 やはり帰るには安山に頼るしかなさそうだ。安山はどこにいるんだ? そう葉月に訊ねようとした時、野次馬の方から大きな声が響いた。 


「おい、見世物じゃないぞ。お前らは自分たちの仕事に戻れ!」


 そう叫んだのは警官だった。


 事件のあった建物から出てきて、野次馬たちを追い払っている。身体と態度の大きな男だった。


 警官は野次馬を追い払ったことに成功して、少々誇らしげにしている。それからこちらに気づき、形相を険しいものへと変えて、大慌てで近づいてきた。


「あんた佐々木ってやつだな?」


 その視線は、完全に私を見下していた。間近で見るとさらに大きく感じる。制服越しでも分かる筋肉。その腕はごっつくまるで丸太のようだと思った。


 私に対してしてきたであろう質問に、葉月が「そうだよ、彼が佐々木だ」と頷く。


「そうか。今朝、あの銀行で森川が殺されているのが見つかった」


「あぁ。それなら彼から聞いたとこ……」


 私の返答などろくに聞かず、警官はいきなり私の腕を掴んだ。無理やりその腕を引っ張りながら私を持ち上げようとする。痛みよりも衝撃の方が強く、一瞬、声が出せなかった。警官はもう片方の手で、私の肩を掴み、地面に押し付けた。朝日に照りつけられた暑いアスファルトの上に、顔を押し付けられる。


 一瞬遅れて、痛みとアスファルトの熱が襲ってきた。


「何をするんだ」


「あんた昨日、夜な夜な出歩いていただろう?」


 そこでようやく私は疑われていることに気がついた。確かに夜な夜な出歩いていたのは事実だ。だけど、それはこの町から出ようとしただけで、殺人をしようとしたわけじゃない。


 いきなり襲いかかられ、アスファルトに押し付けられている。そんな状況で言葉がスラスラと出てくるわけもなく、私は反論も出来ずに、ただうろたえていた。


「待ってくれよ。彼が出歩いていたかどうかまでは知らないけど、動機がないだろう?」


 葉月が警官の腰元に掴みかかる。葉月の身体は小さく、その体格差は倍くらいあった。 


「動機? そんなのはいくらでも思いつくだろう。……そうだな。金だ。金が欲しかったんだ。森川は銀行員だった。大金を狙ってこいつは森川を殺した。間違いない」


 なんと無能な。この警官は、こんな乱暴な推理で犯人を捕まえようとしているのだろうか。狭い町で一件目の殺人が解決していないわけだ。そんな私の声など届くこともなく、警官は随分自信満々だった。


「それはおかしいよ。佐々木は昨日、森川さんから現金を貰っていたんだ」


「なんだと? なら……、誰でも良かったんだ。ただ殺しがしたかった。これなら都合がつく」


 頬の熱さは次第に麻痺してきた。息を吸い込むたび、砂埃が口の中へ入って来る。咽た私を、「動くな」と警官は押し付ける。


「こいつは三時に戻っていたぞ」


 声が聞こえて、私は視線を上げた。眩しい空に人間のシルエットが浮かぶ。酒の匂いが鼻をかすめた。五郎だ。


「三時? 三時がどうした」


「三時はまだ森川は生きていたはずだろ? 昨日は森川の番だった」


 ひっく、と五郎がしゃっくりをした。ゆらゆらと彼の手の中で日本酒の瓶が揺れている。


「あぁ……そうか。そうだな」


 少し逡巡して警官は納得した。葉月はまだその腰元にしがみついている。私から彼を剥がそうと試みてくれているのだろうけど、まったく歯が立たっていない。


「ほら、佐々木は犯人じゃないよ。いい加減、離さないか」


「……だが、酔っぱらいの言うことなんて信じられるものか!」


 再び警官の腕に力が込められる。このままではまずい。私は叫ぶように声を出した。 


「私が昨晩、出歩いていたのは事実だが殺しはしていない。それに私は森川も出歩いているのを見たぞ。女と一緒だった。この町には夜は出歩いてはいけないという決まりがあるんじゃなかったのか?」


「あぁそうだ。夜に出歩いちゃだめだ。だが、昨日の森川はいいんだ」


「森川はいい? どうして?」


「そういう決まりなんだ」


 警官はまったく私の言分を聞こうとしない。完全に私が犯人であると決めつけてかかっている。それにここの住人は「仕事だ」「決まりだ」と言えばすべてが通ると本気で思っているのだろうか。


 このまま理不尽に拘束されるのが嫌で、私はこれでもかというほど力を出して暴れた。足を振り上げ身体をひねる。「わー」だとか「ぎゃー」と叫び声も上げていただろう。喉に激しい痛みが走ったので恐らく出していたに間違いない。だが、私の反抗はあっけなく抑え込まれた。


 強い衝撃が背中に走る。どすっと大きな花瓶で殴られたのかと思った。警官が握っていたのは拳だった。息が止まる。苦しい。アスファルトに倒れ込んだまま蒸せる私の上に馬乗りになり、警官は哀れそうな目でこちらを見つめた。


「暴れるな」


 それは忠告というよりも脅しに近かった。今度はこれ以上のことをするぞ。そんなニュアンスが込められている。壁の向こうで起こったという殺人よりもずっと恐ろしい。彼は警官だ、私を殺すはずがない。そんな常識が脳内でボロボロと崩壊していく。葉月と五郎は、恐れたようにあわあわと口を動かすばかりだった。


 私は怖くなって暴れるのをやめた。痛いのは嫌なのだ。なのに、警官は力を弱めないどころか、再び拳を振り上げた。


「何を騒いでるんだ?」


 私が衝撃に備えるために歯を食いしばったのとほぼ同時、男の声がした。警官の私を押さえる力は弱くなる。


 葉月がぼそっと呟いた。


「安山」


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