(4)

 店から出ると、すっかり夕方になっていた。商店街の入り口に飾られた『二段坂商店街』という横断幕越しの山並みに夕陽が沈んでいく。


「どうだい? 気分は戻ったかい?」


「大分よくなった」


 それは良かった、と久瀬は足取りを軽くした。さすがにこれだけ時間が経てば二日酔いもマシになる。


「少し早いけど、帰って夕ご飯にしようか。昼間、コンビニで買ったもので悪いけど、たくさん買ったんだ。今日だけは我慢してくれ」


 久瀬のジャケットのポケットはひどく膨らんでいた。森川に貰った札束を、私は受けとることが出来なかったのだ。「仕方がない」と久瀬が預かってくれている。とはいえ、一銭も持っていない私を見かねて、久瀬は彼自身の一万円を私に渡した。「これは僕からの貸しだよ。それなら構わないだろ?」と。私は納得してその金を受け取った。


「ご飯がコンビニだというのは構わないけど、私はいつになったら帰れるんだ?」


「それは僕には分からないよ」


「そもそも君はいつまで私のそばにいるつもりなんだ?」


 散歩へ行ったついでに、隙きを見て逃げ出そうなんて考えていたのだが、久瀬は中々、私のそばを離れてくれない。


「夕ご飯を食べたら帰るよ、別の仕事もあるんだ」


 久瀬は面倒くさそうにそう言った。きっと今までにもそんな風に言われたことがあるのだろう。これまでに連れてこられた人たちだって、素直にあの部屋に留まる理由はなにもない。


「それとこれは注意事項なんだけどね」


「注意事項?」


「そう。夜は出歩いちゃだめだよ」


「どうして?」


「そういう決まりなんだよ。別に罰則があるわけじゃないけどさ」


「罰則がないのにみんなちゃんと守ってるのか?」


「そうだよ。みんな守ってる」


 なんて秩序がある町なのか。久瀬はハッキリとみんな守っていると言い切った。


「君も出歩いちゃだめだからね」


「分かったよ」


 私は適当に頷いておく。久瀬は「分かったならいい」とあっさり納得した。まさか、これで私が逃げないと思っているのだろうか。そしてこれまでに連れてこられたという人たちは、罰則がないというルールをしっかり守ったのだろうか。そうだとは到底思えなかった。



 * 



 夕食を取ると、久瀬はすぐに帰っていった。腹が膨れたこととまだ二日酔いがわずかに残っているせいもあり、私はひどく眠たくなった。久瀬がいなくなったら逃げ出そうと思っていたのだが、それはもっと夜が更けてからでもいい。今、下手に一人出歩いて誰かに見られる方がまずい。夜に誰も出歩いちゃだめなら、見つかる可能性は低くなるはずだ。


 そうして私はベッドに寝転がった。すぐに眠りに落ちて、次に目覚めたのはかなり深夜になってからだった。


 どうやら久瀬はここに戻ってきてはいないらしい。彼には彼の家があるのだろう。冷蔵庫に入っていたペットボトルを二本取り出し、適当な食料を久瀬が残していったコンビニの袋に詰め込む。ここがどこだか分からないが、歩くならそれなりの距離を覚悟しなければいけない。


 少なくとも道なりに進めば駅くらいはあるはずだし、運良く明け方までに駅を見つけられれば、夕方までには家に帰れるだろう。久瀬から一万円を借りているのが気がかりだが、無理やり連れて来られたのだから、それくらい貰ってもバチは当たらないはずだ。


 食料を詰め込んだあと、腕がまだ痛んでいたので、棚に包帯でもないかと探し始めた。棚に並んでいるのは一般の家庭にもありそうな簡易な薬ばかり。その上包帯は見つからなかった。こんなものが診療所と言えるのか、と私は呆れる。ここをそう呼んでいるのは私だけなのだけど。


 私はひっそりと診療所の扉を開ける。町はすっかり静まりきっていた。向かいのコンビニも電気が消えている。向かい山の麓に一つ明かりがついていた。大きな屋敷らしい。月明かりだけが照らす砂利道を、私は商店街とは逆の方へ向かい歩き始めた。


 歩きはじめて一時間くらいだろうか。私はどれだけ歩いてきたものか、とその道のりを振り返った。唯一、灯っていた屋敷の明かりもすっかり見えなくなり、気づけば周りは畑から田んぼに変わっていた。緑色の稲が闇の中に溶け込んでいる。ゲコゲコとカエルの鳴き声が響き、夏らしい風が吹きつけた。


 まだまだ歩かなくては。そう自分に言い聞かせ、かいた汗を拭い再び歩き出す。どこかに駅かバス停でもあるはずだ。でなければ交番でもいい。あの町以外の誰かに助けを求めよう。


 そうして、歩き続けているうちに遠くで光が灯っているのが見えた。良かった。安堵と共に進む足が早くなる。さらに歩を進めると町らしいものまで見えてきた。なんとかうちに帰れそうだ。


 駆け足気味に、明かりに向かい歩いていくと商店街へ出た。この商店街の誰かに助けを求めよう。そう思い、手短な店のシャッターを叩こうとした時だ。一件の酒屋が目に入り、私は肩を落とす。


 そこは、昼間に久瀬と来た酒屋だった。私は頭を抱える。おかしい、確かにコンビニから続いていた道を真っ直ぐ歩いていたはずだ。それなのにどうして戻ってきてしまっているのか。見間違えかと当たりを確認するが、薄っすらと闇の中に見えた入り口の横断幕には『二段坂商店街』と書かれていた。間違いなくさっきまで私がいた町だった。


 道が曲がっていたのか? それはありえない。ずっと見えていた山並みに向かって平行に歩き続けていたし、たとえ夜でもそれは確認出来る。仮に山の周りをぐるっと回っていたのだとしても、真っ直ぐ進んでいると認識するものだろうか。しかし、実際は元いたところへ戻ってきてしまっている。まるでエッシャーのだまし絵だ。


 そんなたとえを思い浮かべたところで、私は考えるのが面倒になった。歩き疲れた上に、おかしなところに連れて来られたことへの疲れもあった。とにかく帰って寝よう。諦めと同時に睡魔が襲ってきた。


 商店街を抜けて、元いた診療所の方を目指す。その時、背後で声が聞こえた。私はとっさに身体をかがめて、ゴミ箱の陰に隠れた。


 話し声は男女だ。かなり声がでかい。呑んでいるのかもしれない、と思った。そして男の方の声に聞き覚えがあった。森川だ。私はゴミ箱の陰から向こうの様子を眺める。


 暗くて分かりづらかったが、女が森川にベッタリとひっついていた。女が甘い声を出し、森川がそれに対してはしたない言葉を返した。女は満更でもない様子で、森川の頬にキスをする。


 それに抑えきれなくなったのか、森川の手が女の下部に回った。女が甲高い声を出す。そのまま二人の唇が重なった。森川の手が女の胸部をなで上げる。絡みつくように女が森川の首に手を回すと、森川はそのまま女を道に押し倒そうとした。


 なんと不埒な。しかし流石に女がそれを拒んだ。それから森川の耳元に顔を寄せた。森川は興奮気味に女の手を引き、そのまま二人は商店街に建つ一件の家に入っていった。


 この町はおかしい。私はそう呟いて立ち上がり、足早に診療所の方へ向かった。商店街から続く畑には、真っ赤なトマトが実っていた。





★私



「お兄さん、結構呑まれてますか?」


 彼女は、私の腿の上に手を置いてそう言った。


 確か名前はあすかちゃん。とはいえ本名ではない。所謂、源氏名だ。一時間も待ったのだから可愛い子を引きたい。そう願った私の願いは充分叶ったと言える。真実を映さない写真の中から、ひとつ正解を選んだのだ。等間隔で仕切られたマットの上で待っていた私のもとに、かなりタイプの女の子が現れてくれた。


「ちょっと友人と呑んでて」


「呑み過ぎは身体に良くないですよ」


 彼女は科を作った。薄いピンク色のレースの下に下着が透けている。わざとらしくくねらせたその身体をなめるように見つめて、私はゴクリと固唾を飲み込んだ。


「ちょっとした祝い事だったんだ」


「お祝いですか?」彼女は可愛らしく小首を傾ける。


「うん。恥ずかしい話だけど、定職がようやく決まって」


「それはめでたいですね」


 彼女が私の腕が取り、ぐっと胸の方へと寄せる。薄いレース越しに柔らかいものが触れた。私の脳内に血がめぐる。それから熱い血は全身へと一気に流れていった。


「とはいえ、今まで好きなことをしていたから」


「好きなことですか? 何かされてたんですか?」


「えーっと。役者を」酒が回っている上に、火照った脳が、思わず真実を口走る。そんなもの自慢にすらならないと分かっているのに。


「えっ! すごいですね」


「いやいや。まったく世間には出ていないし、小さな劇団に入っていただけだから」


 普段から役者をしているとは、親しい友人以外には伝えて来なかった。馴染みの美容院の美容師の人にも、アルバイト先の同僚にも。有名にならなければ恥ずかしいことだという認識があったのだ。


「正直、才能も無さそうだし、うだうだ続けていただけなんだ。だけど、辞めるにも一念発起出来なくて」


「分かりますよ。変えたいけど踏み出せないみたいな時もありますよね。でも停滞してしまった時、流れを変えるため一度そこから抜け出してみるのは悪いことじゃないと思いますよ」


「そうかな」


「そうですよ」


 彼女の顔がゆっくりと近づく。


「でも、そんなに嬉しそうにしてたかな?」と私が訊ねると、彼女の双眸は甘くとろけるようにトロンと細くなった。


「はい、嬉しそうですよ。それとも嬉しそうなのは、そのお祝いとは関係ないですか?」


 柔らかい唇が私の唇に重なった。彼女の舌が私の口の中へ入ってくる。一瞬、全身に入った力が気持ちよさからか抜けていく。初々しい私の反応を見てか、彼女はくすりと笑った。


「緊張してますか?」


 そう言いながら、彼女の手が私のベルトを緩ませた。それから「少し腰を浮かせてください」と耳元で囁く。ついでとばかりに、ペロッと柔らかい舌が私の耳を舐めあげた。


「うん。あんまりこういうとこに来ないから」


 私は腰を浮かせて、言われるがままズボンを脱がされた。


「緊張しなくていいですよ」


「まるで、おかしなところに来た気分だよ」


 薄暗い空間には、至るところから女性の声が響いていた。たった数十センチの高さの壁の向こうで今まさに男女が絡み合っている。私の隣も斜向かいも。立ち上がれば全体を見渡せるはずだ。一体、どれだけの数の欲望が、如何わしい下心で女の身体を貪っているのか。そしてその欲望を彼女たちはなんともないフリをして受け入れている。


 私の手を取り、彼女は自分の胸に押し当てた。堅いブラジャー越しの柔らかい温もりが伝わる。


「そうですね。ここは外の世界とは違う、おかしなところかもしれません」


  

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