(3)

 玄関に丁寧に揃えられていた紐のないタイプの革靴を履き、外へ出る。私がいたその診療所は、小さなバラック小屋の一つだった。舗装されていない砂利道を抜け、通りへ向かう。


 小屋の向かいは久瀬が言っていた通り確かにコンビニだった。見たことのない看板だ。その左右には家が何軒か建っていたが、その間隔は随分ひらいていた。コンビニや家々の後ろには、ずっと畑が広がっていて遠くに見える山まで続いている。


 なんとも長閑な田舎っぽい風景だな、と私は重たい身体をぐっと伸ばした。心なしか空気も美味しい。


 しばらく歩いていると賑やかそうな通りが見えて、私はふいに「商店街だ」と思った。どうも口に出ていたらしく、久瀬が「二段坂商店街だ」と返してきた。それから思いついたように、彼は続ける。


「そうだ。商店街に行って君を紹介しよう。そうでもしないと仕事がないからね」


「そこまで無理に仕事をしなくてもいいんじゃないか?」


「駄目だよ。仕事はしなくちゃいけないんだ」


 散歩をすることに同意してしまった手前、拒否をする理由は思いつかなかった。ノスタルジックな風景に不釣り合いなスーツの姿の久瀬の後ろを着いていく。


「紹介するって誰に紹介するつもりなんだ?」


「商店街の人だよ」


「それは久瀬の友達なのか?」


「友達? どうだろう少なくとも知り合いではあるけど」


 友人という定義のハードルが高いタイプなのだろうか。少なくとも、今日あった私を友人だ、などというやつとは仲良くはなれない。久瀬と仲良くなるつもりはないのだけど。


 商店街までは少し距離があった。話が途切れたので、気になることを訊ねてみる。


「少女っていうのはいくつだったんだ?」


「え?」


 久瀬は首だけをこちらに向けた。遠くの山から少し冷たい風が吹き抜けてきた。まだ遠いだろう秋を思い起こさせる温度だ。


「一昨日、死んだという少女だよ」


「あぁ。彼女は十歳だったんだ」


 久瀬は悲しそうに眉根を下げる。それを見られたくなかったのか、すぐに顔を正面に向けた。彼に悲しい顔をさせたかったわけじゃないが、彼が少女の死を少し気に留めているようだったので、なにか声をかけてやりたくなったのだ。おせっかいな同情だと自分でも思う。


「君はその少女が死んで悲しかったのか?」


 言葉はなるだけ柔らかくしたつもりだ。「君は少女の死に責任を感じているのか?」なんて、思っていても直接的には聞けなかった。


「悲しんでいるのかもしれない」


「どうして君が悲しむんだ?」


「分からない。けど胸の奥がモヤモヤするんだ」


 彼女が生きるか死ぬかを選ぶなんて自由じゃないか。喉元まで出てきた言葉を私はぐっと飲み込む。鋭く棘の生えた言葉は随分と喉を傷ませた。代わりにとびっきり優しいものを吐き出す。


「君と少女は友達だったんだな」


「そうかもしれない」


 久瀬は立ち止まり、空を見上げた。真っ白な入道雲が山の向こうからこちらを襲うように迫ってきていた。久瀬という男はどうも悪い人間ではなさそうだ。少なくとも、私を拉致してどうしようなどという人間ではないように思えた。



 *



 商店街にはそれなりの人がいた。ここに来るまでに誰ともすれ違わなかったのが不思議なくらいだ。久瀬が「こっちだ」と言って、足取りを早めた。遅れないように私は着いていく。


 久瀬が入った店は酒屋だった。昨晩たらふく呑んだ私は、看板の文字を見ただけで吐き気がしてきた。


「酒屋はちょっと」


「大丈夫だよ。呑んだりしないから」


 ここに久瀬のコミュニティがあるのだろうけど、出来れば入りたくない。そんな私の気持ちなどつゆ知らず、久瀬は私の手を引いて酒屋の暖簾をくぐった。


 酒屋はリフォームをして、居酒屋風に呑めるスペースを作った仕様になっていた。真新しいカウンターに三人の男が座っている。二人は並んで、一人はカウンターの奥の方に一人で座っていた。


「おりゃよぉ、諦めきれないんだよぉ」


 手前に並んで座っていた男が、酒瓶を手に持ち、たどたどしい声を発した。中年の男は酒に酔いつぶれているらしい。久瀬が慌てた様子でその中年に駆け寄る。


「おい五郎ごろう、いい加減呑むのをやめな。身体が持たないよ」


「いいんだよぉ、身体なんて……。おりゃ、呑まないとやってられない……ふぅ……」


 酔いが完全に回って潰れたのか、五郎という中年はカウンターに突っ伏した。うっすら目をあけたまま、寝言のように聞き取れない言葉を発している。なんとも憐れな姿だが、昨晩の自分はこんな状態だったのでないかと不安になる。


「五郎はいい加減、酒をやめるべきだよ」


 久瀬が怪訝そうな顔でぼやく。五郎の隣に座っていた久瀬よりも若く気弱そうな男が五郎の背中を擦りなら、それに返した。


「でも五郎の気持ちも分からなくはないかな」


「おいおい葉月はづき、君はまだ十九だろ。酒は呑んじゃだめだ」


 生真面目な顔をした久瀬に、葉月は苦笑いを浮かべた。「そうじゃなくてさ、」と呟いて、少し間が空く。慎重に言葉を選ぶタイプらしい。


「なんというか、五郎は苦しんでるんじゃないかな」


「五郎は苦しんでいたのかい?」


 葉月が頷いた。「葛藤に耐えられなくなって酒に逃げたんじゃないかな。僕はお酒を呑めないから本当のところは分からないけど」と続ける。


「だからと言ってお酒に溺れることは容認できないな」


「それは違いないね。けど、同情の余地はあるよ」


 葉月の言葉に久瀬は肩を竦ませた。いいスーツに少しシワが寄る。それから思い出したように、久瀬がこちらを向いた。私を紹介してくれようとしたのだろう。酒屋の暖簾がまだ肩にかかった状態だった私は店の中へ一歩踏み入れる。それと同時、店の奥から怒鳴り声が飛んできた。  


「いや、同情の余地はないね。それは弱い人間のいいわけだ」


 店の奥で一人呑んでいた男が、こちらをにらみつけていた。歳は酔いつぶれている五郎と同じくらいだろうか。みすぼらしい格好の五郎と違い、綺麗な服装をしていた。メーカーは知らないものだが、高そうなバッグを持っていた。


 男の言葉に、葉月が顔を伏せた。久瀬がなだめるように、「まぁまぁ、森川もりかわ」と笑顔を作った。


「酒に逃げるだなんて、いい大人のやることじゃない。酒は嗜むものだ」


 男の言葉に私はひどく納得する。そうだ、酒は嗜むものだ。酒に溺れるとろくなことはないぞ。そのことは今まさに身を持って体現している。


「森川の言うことは最もだよ」


「久瀬もそう思うだろう? この大人になりきれない愚か者は酒に逃げるしかなかったんだ。そうさ、誰もが自分の力量を知るべきなんだ。じゃないとこいつみたいに憐れに落ちぶれてしまうんだ」


 森川の言葉はいやに私の痛いところを突いてきた。売れない役者をやっていた日のことを思い出す。手売りのチケットを仲間内で分け合い、人の入らない小屋で芝居をしていた日々。仲間が出来た、他人とは違う、がむしゃらに生きている。そんな言葉で日々の体たらくを正当化して、有意義であると錯覚していただけなのかもしれない。素質も才能もない私は、水たまりに写った月に手を伸ばし続けていただけなのだ。それを掴めないと知りながら。


「それにだ、」森川の言葉は俯いている葉月に向く。


「葉月、お前ももう十九だろ? 酒は呑めないとはいえいい歳だ。いつまでもくよくよとしてるんじゃない。あの女のことは忘れろ」


「分かってるよ! 分かってるけど……僕はまだ……」


「そう分かっているなら、早いところ久瀬に頼むんだな」


 葉月は泣きそうになっていた。顔は見えないが背中が震えている。言いたいことを言い終えたのか、森川はすっきりした表情をしてこちらに気がついた。「あんたは?」と首を傾げる。


「この人は佐々木だ。安山が連れてきたんだ」


「そうか安山が、それなら忘れないうちに支払っておかなくちゃな。今回はいくらだ?」


 支払い? いくら? どういうことだ、と私は久瀬の方を向く。そんな私のことなど無視して、久瀬は喉を鳴らした。


「うーん。どうなんだろう。ほら一昨日あんなことになっちゃたじゃないか。だから何も決まってないんだ」


「それは困るな。こっちも仕事なんだ。はっきりと方針を示してくれないと。死んだなら死んだでどうするか決めていなかったのか?」


「そうなんだ……」


「不甲斐ないとは思わないのか?」と森川は付け足した。


 私はその言葉に嫌悪感を抱いた。それは久瀬を同情したものではなく、一人の少女が死んだということをあまりに軽視した発言だったからだ。ただ、私はその少女のことを何も知らない。湧いてくる怒りは理不尽なものかもしれない。


 黙ったままの久瀬に、森川は勘弁してくれと言いたげに溜息を漏らす。


「取り敢えず、一週間分支払っておくよ。超過した分は後で返してくれ」


 そう言って、男は懐から茶封筒を取り出した。それを久瀬に手渡す。久瀬が中を確認した。


「一週間にしてはちょっと多くない?」


 帯の巻かれた札束が見て、久瀬が不思議そうに言った。


「それは君への報酬も入っている」


「あぁそういうことか」


 納得したのか、久瀬は札束から数枚を抜き取ると自分のポケットに入れた。それから、その残りを私に差し出す。


「待ってくれ、なんだこの大金は?」


「君への報酬だよ」


「報酬? 一体何に対してのだ?」


「少女に会うことが君の仕事だったんだ。だけど、残念なことに少女は死んじゃったから、その役目を果たせないけど」


「だったら受け取れないよ」


 仮に少女と会ったとしてもこんな大金はもらえない。なんだってこんな金を、渡されなきゃいけないのか。怪し過ぎる。私がそんな目で大金を見ていると、森川は面倒くさそうに久瀬から封筒を奪い取った。


「受け取ってもらわないと困るな。それが私の仕事なんだ」


「だけど、急に身に覚えのない大金を渡されるのは怖いんだ」


 森川は私の胸に無理やり金を押し付けた。それでも受け取らない私に、少し苛立ちながらカウンターの上に封筒を叩きつける。


「まったく、おかしなやつだ。こんなことを言うのは先月の女以来じゃないか」


「そうだね。彼女もちょっと変わってた」


 二人が話しているのは、私の前にここに連れてこられた人の話だろう。話を聞く限りその女性以外はお金を受け取っているらしい。


「みんな受け取っているのか?」


「仕事したんだから貰うのは当然の権利だよ」


「私はその仕事をしていないだろう?」


 森川は「堅いやつだなぁ」とボヤキながら店の暖簾に手をかけた。酔いつぶれたと五郎と葉月の方をみやる。 


「まったく、君たちはいい加減大人になってくれよ。そうでなきゃ困る。ろくに仕事も出来ないんだから」


 そう吐き捨てるように言い残し森川は店を出ていった。


「なんなんだこの金は?」


 カウンターに残された大金を指差し、私は語気を強めた。金を渡されたこともそうだし、森川の態度が無性に腹立たしかったのだ。


「だから、報酬なんだよ」


「そうじゃなくてさ」


 またこのやり取りだ、と額に手を当てた私に、葉月が顔を上げた。


「……森川は銀行員なんだよ」


「だとして、私はどうして銀行員に金を渡されなくちゃいけないんだ」


「だけど、それが彼の仕事なんだ」


「それは本来の銀行員の仕事じゃないだろう?」


「君の言う本来っていうのは、どういうことなのか分からないんだけど」


 彼の性格のせいか、葉月は粛々と話しているというよりは、恐る恐る言葉を選んでいる感じがした。久瀬の返しよりも誠実さを感じる。それにしてもどこかおかしい。タクシーを知らなかったり、都道府県を知らなかったり、銀行員の本業まで分からないと言い出す始末だ。


 久瀬がなだめるように私の肩を叩いた。


「なぁ佐々木、この町では彼のような銀行員の仕事は、少女に投資をすることなんだ」


「少女に投資をして、森川って男は誰から金を返してもらうつもりなんだ?」


「そりゃ少女からだよ」


 なんともおかしな理屈だ、と思った。少なくとも、その少女がいなくては、森川は私に金を渡す道理がないはずだ。


 葉月が、隣の椅子の上に綺麗に畳まれていた毛布を五郎にかけてやる。それから久瀬へと声をかけた。


「なぁ久瀬。君は仕事のし過ぎだよ」


「仕方ないだろ」


「そうだけどさ」


「それに仕事は悪いもんじゃない。きっちりお金も貰えるし。ほら、このスーツも新しくしたんだ。いいもんだろう?」


 久瀬はまるで自分に言い聞かせているようだった。葉月は、「そうだね」と口端を歪めるように笑顔を作っていた。


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